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科学コミュニケーションにおける対等性に関する懸念と対策案

2005年は「日本における科学コミュニケーション元年」と呼ばれることがある【小林傳司『トランス・サイエンスの時代』p18-p34】。複数の大学で科学コミュニケーションに関する教育が本格始動した年であることがそう呼ばれる一因だ。そういった動きの後押しもあり、サイエンスカフェなどの科学コミュニケーション活動がそれまでに比べ多く開催されるようになった。

科学コミュニケーションの定義は多様だが、僕はそれを「科学の非専門家と専門家とが“対等”かつ“双方向的に”対話できるようにする理念や活動」と自らの中で位置付けている。サイエンスカフェでも、この対等かつ双方向的という点が重視される。例えば、科学コミュニケーターの本間善夫氏は新潟日報のインタビューの中で、サイエンスカフェについて、

演壇から話す講演会は一方的になりがちですが、床の高さが同じ所でお茶を飲みながら双方的に科学の話をしましょうという場です

サイエンスカフェにいがた開催100回記念インタビュー

と答えている。「床の高さが同じ」という点は大切だと思う。この点が、サイエンスカフェの特徴でもあり、対等な対話を生み出す工夫でもある。

さて、ここで自問すべき問題は「“対等”かつ“双方的に”対話なんて本当できるのか?」ということだ。この問題に対し、僕は頭のどこかで悩みながらも、きちんと向き合っていないと、しばしば反省してしまう。簡単に答えが出るような問題でもないのだが。。。

金森修氏(1954~2016)の以下の著作を読むと、上述した問題点についてバシッと書かれているので背筋が伸びる。

例えば『科学の危機』では、サイエンスカフェに対して、

サイエンス・カフェでも、〈知識勾配〉の存在は大前提であり、しかも個別科学者の背景には、当該領域の専門家集団、さらには科学全体の専門家集団が控えており、他方で参加する市民は、原則的には一人ひとり個別の独立した人々だ。
両者の間には知識的、権力的、制度的に厳然とした違いがある。

金森修『科学の危機』集英社新書 (2015) p200

と書かれてる。「仰る通りです!」と、すかさず、マーカーで線を引いた覚えがある。これを受けて、改めて、どうすれば“対等”かつ“双方的な”対話ができるのだろうか?と思いを巡らせている。

思い浮かんだことの一つは、サイエンスカフェの登壇者には、大学院生や若手研究者が向いている(のではないか)ということだ。そうすれば、話し掛け易さもあるだろうし、肩書きによる威圧感も少なくなる。実際に、大学院生や若手研究者が登壇することにより、質問がし易い雰囲気が生まれる場合や、分かり易い説明が提供されるという報告もある(例えば以下の二つ)。

そして、もう一つ。それは、科学コミュニケーターの必要性だ。科学コミュニケーターは、まさに、科学の非専門家と専門家の間の橋渡しになるような存在だ。そのような人材が多く育てば、上述した問題点も少しずつ緩和されていくのではないかと考える。ただし、そのためには、科学コミュニケーターの質を保つための養成拠点が不可欠になることも忘れてはならない。

林衛・加藤和人・佐倉統「なぜいま『科学コミュニケーション』なのか?」生物の科学 遺伝 Vol.59 No.1 (2005) p30-p34

サイエンスカフェで“対等”かつ“双方的に”対話なんてできるのか?

これは継続的に考えを重ねる必要がある問題であり、科学コミュニケーションが対峙すべき問題だ。そして、これは科学コミュニケーションの存在意義にもつながると感じている。

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