見出し画像

空蝉の詩 ①

母方の祖母が亡くなったと知らされたのは、大嫌いな数学の授業中だった。教室の廊下に呼び出されてすぐ帰るように言われ、わたしは荷物をまとめていた。
「美波、どうしたの?」
隣の席の茜が心配そうに尋ねる。

「おばあちゃん、死んじゃったんだって」

帰るね、と大して重くないリュックを背負うと、クラスメイトの好奇の視線を浴びながら後方のドアへと向かう。

「美波」

小声で呼ばれて目を向けると、ドアのすぐ側の席の耀太がまた心配そうな顔をしている。

「連絡して」

うん、と頷くと、わたしは教室を出た。
静まり返った廊下を5月の風が吹き抜けていく。夏の足音がすぐ後ろから追いかけてきている匂いがした。

♢♢♢♢♢

耀太とは付き合いだしてまだ3ヶ月だ。仲のいいクラスメイト、くらいの位置付けだったので、高1の終わりに告白された時は驚いた。別に嫌いではなかったのでOKしたが、いざ付き合いだしてみると、なかなか面倒だった。四六時中連絡を寄越してくるし、返信せずにいると電話をかけてくる。せっかくの春休みもしょっちゅう連れ出され、インドア派のわたしは辟易していたし、2年になってまた同じクラスだと知った時は愕然とした。
何より、わたしのパーソナルスペースに断りもなく侵入してきて、更にやたらベタベタと触れてくる。それが1番苦手だった。

「あんた耀太のことちゃんと好きなの?」

茜がシェイクのストローを噛みながら訝しげに尋ねる。
「嫌い……ではないよ」
「……好きかどうか訊いてるんだけど」
「う〜ん……」
核心を突かれて、思わず天井を見上げる。
「もう、別れようかな」
ポロリ、と本音がこぼれた。
茜はやっぱりね、と肩を竦めた。
「ちゃんと言いな……早い方がいいよ」
うん、と答えて、溶けてすっかり温くなっていたシェイクを無理やり飲み干した。
つい昨日のことだった。


♢♢♢♢♢


「ただいま……」
家へ帰ると、母が慌ただしく準備をしていた。
「あぁ、おかえり。ごめんね、授業中だったでしょう」
「いいよ、数学の授業なんてきいてても分かんないし」
わたしの言葉に、母が呆れたように微笑う。
「ママ……大丈夫?」
母は力なく頷くと、お通夜とお葬式は制服でいいから、3日分くらいの着替えを準備しなさい、と言って、傍にあったわたしのスーツケースを指さした。
「……パパは?」
「あとから来るそうよ」
母はそういうと、父の礼服を丁寧にスーツケースへしまった。父は忙しい人で、家にはほとんどいない。わたしもここ1週間、父の顔をまともに見ていなかった。

「おばあちゃんね、もうそんなに長くなかったの」
母が言った。
「黙っててごめんね」
ううん、と首をふり、わたしは自分の部屋へ入ると、クローゼットを開けた。

祖母の家は海の近くにあった。
夏休みになると、毎年母に連れられて遊びに行っていた覚えがある。砂浜がきれいで、近くにひまわり畑があった。いつ行っても祖母は優しく出迎えてくれ、川ではスイカが冷えていた。中学生になってからは何となく恥ずかしくなって足が遠のいていた。母もわたしも、祖母とはもう4年は会っていなかった。

新幹線で2時間。駅を出ると、親戚の咲子おばさんが迎えに来ていた。4年前に会った時より随分太ったように見えた。クローゼットの奥にしまってあったのを慌てて出したのだろう、明らかにサイズの合っていない喪服を無理やり着ていた。
おばさんは、よく来たね、おばあちゃんが待ってるよ、と涙声で母と話をしている。
咲子おばさんは母の従姉妹だ。母にはもう1人兄がいるが、わたしは会ったことがない。
「あなた、美波ちゃん?すっかりきれいになって!」
わたしの顔を見た咲子おばさんが、うれしそうに笑った。

車で20分のところに祖母の家はあった。
海の匂いがする、立派な門構えの大きな家。敷地も広く、車が何台も停まっていた。親戚と近所の人たちだろうか。エプロン姿のおばさんや頭にタオルを巻いたおじさんたちが、家に出たり入ったりと忙しそうに駆け回っている。
荷物をおろしていると、背中に視線を感じた。振り返ると、わたしと同い年くらいの男の子が1人、家の門の傍に立ってこちらを見ていた。
誰だろう……
目が合うと、男の子は一瞬、驚いたように目を丸くした。その後で何か言いたそうな顔をして、でもすぐに踵を返して行ってしまった。
「あっ………」
「どうしたの?」
「……ううん、なんでもない……」

あの子……知ってる気がする……

咲子おばさんに先導されるがまま歩いて通されたのは、奥の部屋。そこに、祖母は横たわっていた。
その傍らに、知らないおじさんが座っている。
「美波、俊哉伯父さんよ。ママのお兄さん」
「あ……初めまして。美波です」
伯父はわたしを見ると優しく微笑んで、よく来たね、と言った。
高そうなスーツを着こなして、凛とした佇まいをした人だった。

「おばあちゃんの顔みてあげてね」
咲子おばさんはそういうと、祖母の顔に掛けられていた白い布をとった。
4年前より小さく痩せてしまった祖母の姿があった。
陶器のように白く血の気を失ったその顔を見た時に、やっと、祖母はもう二度と動かないのだ、と痛感する。
「あぁ……」
隣に座る母から声がもれる。
「お母ちゃん……こんなに痩せて……」
母は涙声でそういうと、祖母の顔を撫でる。
「お母ちゃん……ごめんね……来られなくて……ごめんね」

こんなことになるなら、変な意地を張らなければよかった。おばあちゃんに会いに行けばよかった。
1年に1度、顔を見せにくるくらい何でもなかったのに。。
わたしは後悔の念に苛まれながら子どものように泣きじゃくる母の背中をひたすらさすっていた。

♢♢♢♢♢


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?