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東大を出たけれど01「雀荘メンバーの哀愁
夜番が明け、通勤するくたびれたサラリーマンや賑やかな学生達と一緒に電車に乗り込む。疎外感なのか優越感なのか自分でもはっきりしないが、これから一日が始まる彼らとすれ違いに帰途に着くことに、妙な感覚を覚える。いつからだろう。歪んできたのは。
吹き溜まりのような場末の雀屋で拙い腕を振るい、卓上の小さな勝ち負けに執着する毎日。途中まっとうな就職を選択することも勿論出来たのだろうが、一旦立ち止まれば次
東大を出たけれど02「7枚目の筋牌」
人間というものは非常に複雑な生物であるはずだ。その日の麻雀の調子の良し悪しも、席だとかツキだとかの単純な言葉で、その要因を片付けられるものではないだろう。落ち着いて卓上を観察する余裕と、それに対する判断能力。苦難な状況も甘受できる精神力。それは日によって実に微妙に変化すると思う。
麻雀の調子、というのは決して運だけではない。運に翻弄されるか否か、である。
その夜は初め振るわなかった。手が入
東大を出たけれど03「侵食者たち」
ある常連の客がいた。小太りで30代半ば、いつも雀荘にいて、仕事は何をしているか分からない。会社をやっている、とは言っていたが、所詮雀荘にいる人間の言うことはあまり信用できるものではない。
ただ、彼とは普段からなんとなく馬が合い、他の店でたまに一緒に麻雀を打ったり、食事に付き合ったりしていた。
仲は良かった、と思う。
「ちょっと回してよ」
清算の段で、下家の彼が耳打ちしてきた。持ち金が尽き
東大を出たけれど04「釣師」
昨今巷に溢れている麻雀のスタイルは、相手の手など考えない、独りよがりなものだ。枚数優先のデジタルな棒テン即リー戦術は、確かに現代の祝儀ルールに最適だし、穿った物言いをすれば、個人主義の台頭した世相を反映しているような気もする。
しかし、全員が相手の形の類推や自分の手の隠蔽に無頓着であれば、麻雀は本当に味気ないものだ。お互いがただ好きに打って、気紛れな牌の潮流に結果を任せればよい。
麻雀は、釣
東大を出たけれど05「変化の種」
一緒に勤めていたメンバーの一人が、店を辞めた。
彼には同棲している連れ合いがおり、彼自身今の境遇から足を洗うことを、常々考えていたのだと思う。「自分ひとりの人生ではないので」と、潔く勤め人に転身した。
彼は麻雀も巧く、接客も極めて優れたメンバーだった。店には痛手であったが、それでも彼らにとっては祝うべき門出であろう。心をこめて二人の幸福を願い、またいいようのない焦燥感にも囚われた。
無
東大を出たけれど06「在野の達人」
何年も前の話だが、ある熟練の裏メンがいた。とにかく逸話を挙げればきりがないであろう彼は、私の知りうる限り最強の打ち手だったと思う。
私は当時新米で初心者同然であったため、彼の凄さを断片的にしか理解しておらず、記憶にあるのは、彼の天才的な読みの力とその魔法のような打ち筋だけなのが悔やまれる。せめてもう少し自分自身経験を積んだ後に彼の麻雀に出会っていれば、何かしらもっと得るものはあっただろう。
東大を出たけれど07「酔客の一打」
「おい。ビール」
いつものように酒を片手に打つ中年客。レジ横の冷蔵庫から缶を取りながら、ふと手を見ると、こんな形だった。
一二二三三四赤五六七④赤⑤赤567
筒子を切れば単騎で聴牌だが、普通は萬子を払ってシャンテンに戻すところ。赤3枚なので、食いタンを視野に入れて打※一か。
客は、やや困った表情で切りあぐねている。
「御代、よろしいですか」
サイドテーブルにビールとグラスを置いて、声を
東大を出たけれど08「計算」
正直、計算はあまり得意ではない。学生の頃は理系だったし数学も嫌いではなかったが、暗算というものがどうも苦手で、子供の頃から可愛げもなく筆箱に電卓を忍ばせていたものだ。
現在の麻雀に於いて、計算はそれほど重要な能力ではない。相手との点差は卓に表示されるし、和了り点のパターンも決まっているので、一通り覚えてしまえばよい。「1300・2600をツモ和了ると、子方と何点、親とは何点差がつくか」など、ち