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小説 『長い坂』 第二話

「いまよりゃマシだろう」

 ザ50回転ズはそう歌った。きっと将来は今よりマシになる、ぼくもそう思って20代の辛いときを乗り越えてきた。でもそれは嘘だった。31歳のぼくは20歳のぼくよりマシではない。年齢によるライフステージの変化により、旧友とは疎遠になった。学生時代毎日一緒にいた友達は、20代のとき度々会っていた友達は、家族を持ったり、仕事が忙しくなったりして、今ではもうほとんど会う機会がない。歳を取れば取るほど、新しい友人は出来づらくなり、孤独の度合いが深まる。そんな当たり前のことに31歳になるまで気が付かなかったとは、我ながら素晴らしい頭をしている。月曜日、新宿にあるオフィスでどうでもいいような日報をパソコンで書きながら、そう思った。夜9時のオフィスにいるのはぼくだけだ。鍵は前もって預かってある。部長に今日は残業をしますので、オフィスの鍵を閉めてから帰りますと言うと、ほどほどにしとけよという言葉とともに鍵を渡してくれた。実際は残業する必要はない。通常のペースで仕事をやれば十分に定時で片付くのだが、今日は家に帰りたくなかったのだ。だからわざと仕事のペースを落とした。遅延行為を行ったのだ。今日の分の残業代はでない。自分で言ってそうしてもらった。

 仕事が終わり、パソコンをシャットダウンする。家に帰りたくない、ぼくにはたまにそういう日がある。何故だろう?帰ったって誰もいないのに。窓の外を眺めた。新宿の街の夜景が広がる。眼下に歩道橋が見えた。あそこから落下したら、確実に死ねるだろうか?ぼんやりとそう考えた。アスファルトに叩きつけられるときの衝撃、痛み。車に轢かれる自分の体。ぶちまけられる内臓。胃、腸、割れた骨。潰れた脳と眼球、千切れた耳。血の海。それを見下ろす月の光。ぼくは死にたいのだろうか?スーツのズボンのポケットに手を入れる。煙草が切れていることを思い出した。コンビニで煙草を買うことにする。

 オフィスを出て、すぐ近くのコンビニでメビウスを買った。新宿の明かりが目に眩しい。ビルの陰で煙草を一本だけ吸った。家に帰りたくない、そんな日は何故か酒場にもレストランにもバーにも行く気がしない。そもそも友人達と疎遠になってからそういうところへは近づかなくなっていたが、なおさら行く気がしない。駅に向かって歩き、途中の本屋に入った。わざと時間をかけて店内をまわる。途中、きつい香水の匂いのするキャバクラ嬢らしき女とすれ違った。そうかと思えば、同じ柔軟剤の香りをさせた若い男女ともすれ違った。中年のサラリーマンが競馬雑誌の立ち読みをしている。大学生らしき男が両手いっぱいに、少年漫画を抱えている。古地図を吟味する女、ヒソヒソ話をする50代くらいの夫婦、料理本をいくつも手にとっている化粧の濃い男。本というより人を見ていた。

 閉店まで店内をぶらぶらした。何も買わずに出てくるのも気が引けたので、小林秀雄の本と北杜夫の小説を買った。23時過ぎの中央線に乗って、高円寺まで帰る。高円寺駅について、ギターを背負ったバンドマン風の男を見ながら、駅前の喫煙所で煙草を吸った。風俗に行かなくなったら、これから一体どこでぼくは女の肉体と触れ合えばよいのだろう?ふと、そんなことを考えた。

 マンションに着いた。部屋へ入ると空気がしんとしていた。まるで死体安置所のようだ。居室の電気をつける。自分以外誰も入ったことのない部屋。壁紙の白さが目につく。ビジネスカバンをベッドの脇に置いて、スーツを脱いで、シャワーに向かう。熱いお湯で頭と体を洗った。もし今ここに床屋で使うような剃刀があったら、ぼくはきっと手首を切っていただろう、そういう確信が湧いてきた。洗顔剤を使って顔も洗う。そういえば風俗嬢はみんな同じ匂いがする。同じ洗剤の匂いだ。一日に何度も何度も体を洗うからだろうか?街ですれ違った人からその洗剤の匂いがすると、思わず振り向いてしまう。ぼくのここ10年で、まともで優しかった女の思い出はすべて風俗嬢とのものだ。彼女たちは優しい。商売を含みに入れても、ぼくが会ってきた女たちの中で風俗嬢ほど優しい人たちはいなかった。シャワーを止めて、バスタオルで体を拭いた。ジャージに着替えて、ミネラルウォーターを飲みながら、近くの公園で煙草を吸った。スマートフォンで時間を確認すると、深夜1時を過ぎていた。月がよく見えた。いつ死んでもいいな、ぼくはそう思った。

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