『トラペジウム』『関心領域』雑感(今日の3年ゼミで取り上げるので…)

 今日(18日)の私のゼミで、5月10日から劇場公開中のClover Works制作のアニメ映画『トラペジウム』と、5月24日から劇場公開中のジョナサン・グレイザー監督の映画『関心領域』について、ゼミ生たちが書いたレビューの合評をすることになった。両作とも、私が鑑賞したのはだいぶ前だが、その関連で、私なりの感想を、簡単にしたためておきたいと思った。レビュー以前の文章の、さらにその下書きみたいな感じなので、とりあえずnoteに上げておく。

『トラペジウム』雑感

まず、5月14日(もう1ヶ月以上前!)に鑑賞した『トラペジウム』。

著者自身も乃木坂46の1期生という元アイドルだった高山一実の同名小説を原作に、10代の少女たちのアイドル活動を描いた青春物語だ。アイドルに憧れ、アイドルになりたいという夢を抱く高校1年生の東ゆう(結川あさき)が、半ば強引に、自身の計画に同調してくれる仲間を探し出し、彼女たちとアイドルグループ「東西南北」を結成する。次第に、メディアからも注目され東の承認欲求を満たしていく東西南北だったが、やがてそれぞれのアイドルに賭ける思いに亀裂が生じていく。さまざまな葛藤や困難を経て、成長=成熟していく高校生4人の姿を描き出す。

公開後、SNS上では、主人公である東の人間性や昨今のアイドル文化に垣間見られる生々しい人間模様やダーティな内面などが話題になっていた。

 ただ、私が本作を観て得た興味深い論点は、昨今のアイドル物語にも見られる、ある独特の「時間性」=時差の問題である。ここでは、この1点に絞って書く。

本作のタイトルである「トラペジウムtrapezium」とは、ウェブの辞書を検索すると、主に2つの意味があるようだ。1つは、「不等辺四辺形」、すなわち「どの二つの辺も平行でない四角形」を意味し、もう1つは、「オリオン星雲の中にある四つの重星。非常に高温で強い紫外線を放ち、星雲全体を光らせる星」のことだという(デジタル大辞泉)。もとよりラテン語で「台形」を意味するこの言葉の持つ意味が、したがって、本作の物語や登場キャラクターの属性を寓意的に表していることは、ひとまず誰しも容易に思い当たる。とりもなおさず、前者の意味は、まだ人間的に未熟な、「東西南北」に仮託された10代の少女たち同士の不安定な繋がりや関係性を、歪な不等辺四辺形に見立てているのだろうし、後者の意味は、東が幼いときにアイドルを見て、「はじめてアイドルを見たとき思ったの。人間って光るんだって」と感じたと述べるように、彼女たちが目指す、あるいは体現しようとする「アイドル」という「星雲全体を光らせる」ような圧倒的な光を放つ存在になぞらえられているのは明らかだ。実際に、作中には、その符合を象徴するかのように、夜空の星座が印象的に登場する。

 とはいえ、以上の見立てはあくまでも「空間的」な比喩を連想させる。『トラペジウム』は、東西南北という方位性であったり作中に出てくる地図であったり空間的なイメージを喚起するディテールが目につく。

しかし、例えばヴァルター・ベンヤミンが「歴史哲学テーゼ」で提起した「星座Konstellation」の概念がそうであるように、星座とは一見、平面的な夜空に空間的に配置されている関係だと思いがちだが、その形に結ばれる配置に見える個々の星たちは、実際には何億光年も互いに離れている。私たちが見ている星の光はそれぞれはるかな異なる過去の時間から放たれた複数の時差を伴うものでもあるのだ。そこに思い至ると、実は『トラペジウム』とはそのベンヤミン的な星座のように、さまざまな「時差」=複数の時間のズレ(歪み)こそが物語を駆動していた作品であったことに気づかされる。亀井美嘉(相川遥花)に恋人がいることが発覚するのも、東西南北がブレイクし始めた後のことだった。何よりも、そのことがきっかけで関係が壊れてしまう亀井と東だったが、亀井にとって東が大きな存在だったことが東にわかるのも、さまざまなできごとが終わった事後のことである。そして、東自身が自分と向き合い、アイドルに対する気持ちを自覚するのも、相応の時間を要することだった。

 ただこれは、青春物語として描かれる本作にしてみれば、ある意味で当たり前のことでもある。青春につきものの成長や成熟とは、つねに、リアルタイムで起こるものではない。ある者にとっての成長の契機になった(と思われる)できごとと、その者にとっての成長(の自覚)は絶対に「同期」(空間的に一致)しない。あらゆる「学び」がそうであるように、あらゆる成長や成熟は、ある現在から振り返ったときに「あれが自分にとっての成長だった」と、「事後的」に自覚されるものでしかあり得ない(しかも、それも錯覚かもしれない)。そこにはいつも原理的な遅れ=時差が生じる。東や亀井や大河くるみ(羊宮妃那)や華鳥蘭子(上田麗奈)にとって、「トラペジウム」とはまさにその「時差」=歪んだ時間の変名に他ならない。

 こうした時差によるある種の成長の物語とアイドルものの結びつきは、昨今いくつか認められる。例えば、『トラペジウム』とも時折、比較して言及されることもある『【推しの子】』。まさに「転生もの」の要素も含むあの大ヒット作も、似たような時差のモティーフを抱えた作品だっただろう。

ここからは、批評的な類推の、思いつきの、そのまた前段階のタネのような話だが、その背景を考えるとすれば、まさに2010年代以降のアイドル文化とSNSの結びつきが喚起する同期性や現前性の感覚の全面化が関わっているようにも思う。「いま・ここ」を絶えず消費するアイドル文化とSNSがあり、それに対して現代のアイドル物語は、そうしたリアルタイム的な消費から逸脱する多様な「時差」のドラマを盛り込んでいるのではないだろうか。

『関心領域』雑感

続いて、5月25日に鑑賞した『関心領域』。

 この映画は、制作がいま話題の制作・配給会社「A24」。しかも、本作は物語のほぼ全編がある種の「密室」的な空間――ナチスのルドルフ・ヘスの四方を囲われた邸宅の内部で展開されるが、この密室的イメージは、『ルーム』『A GHOST STORY/ア・ゴースト・ストーリー』『アンダー・ザ・シルバーレイク』『ザ・ホエール』などなど……A24の作品群の多くに見られる典型的なイメージである。その問題については、すでに『ユリイカ』2023年6月号のA24特集に寄稿した拙論「プラットフォームとしての「密室」」で詳述したので、そちらを参照されたい。

ともあれ、この『関心領域』については、すでに指摘されたり論じられたりしていると思うが、その題名からの類推でも、まずはここ数日、SNSでもトレンドに上がっている(マルクス・ガブリエルの記事の影響のようだ)マルティン・ハイデガーとの接点に注目せずにはいられない。もとより、「関心領域」とは、第2次世界大戦中、ナチスの親衛隊の隊員たちが用いていた、アウシュヴィッツ強制収容所を取り囲む40平方キロの地域を指す隠語であったという。主人公であるナチス親衛隊将校ルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)とその妻ヘートヴィヒ(ザンドラ・ヒュラー)が暮らす強制収容所のすぐ隣の新居は、四方を塀で囲われ、その外の収容所ではきわめておぞましいユダヤ人たちのホロコーストが実行されているが、そうした外部には一切関心を払わず、優雅で平穏な暮らしを営んでいる。こうしたヘスらの姿は、ナチス・ドイツにも積極的に加担したことで戦後に糾弾されることになる20世紀最大の哲学者、ハイデガーが主著『存在と時間』(1927)で提起した、まさに「関心Sorge」の欠如した、頽落した「世人Das Man」そのものだと言えるだろう。知られるように、ハイデガーは、現存在(人間)の本質的なありようを、この世界に対する関心(気遣い)に見出した。具体的には自らの死についての先駆的な決意性を保持しているありようを言う。そして、20世紀の消費社会や大衆社会を生きる人々はそうした死についての配慮を忘れて日常に頽落している世人だとみなした。それでいうと、すぐそばにある大量の他者の死はもちろん、自らの死も思い煩わず、公共的なクリーンな空間の中で悠々自適に暮らそうとするへートヴィヒの姿は、まさにハイデガー的な世人そのものだと言ってよい。その意味では、『関心領域』の主な舞台であるヘス邸はむしろ「無関心領域」、あるいはごく私的な関心のみが残る領域だと言い換えることもできるだろう。

 ちなみに余談的に付け加えれば、『関心領域』におけるヘス邸の作りは、現代のゲーテッド・コミュニティみたいなものを想起させもする。そう考えると、これもよく言われるように、本作におけるヘス邸のイメージは、ハイデガーを経由して、21世紀のセキュリティの問題にも通底しているだろう。「セキュリティsecurity」という言葉の由来は、「落ち着いた、心配のない」という意味のラテン語「securus」だが、これは現在の「care」(気遣い)にも通じる「cura」(気遣い)というラテン語に、「〜がない」という意味の接頭辞「se」がついたものだ。そして、このcuraはハイデガーの用いるSorgeと等しいので、まさにセキュリティとは、ハイデガー的な世人の状態、つまり世界に対する関心の欠如した「気遣いの必要ない」状態を意味するのである。その点で、物語のラストで突如、現代世界に飛ぶ『関心領域』の20世紀半ばのドイツのヘス邸は、実は21世紀のセキュリティの行き届いた私たちの生きる公共空間にまで繋がっているのである。

 しかも、『関心領域』のグレイザー監督の演出の妙である、塀の外から聞こえてくる「音」の表現。こうした聴覚的な要素の全景化については、『24フレームの映画学』の北村匡平や、私自身も『明るい映画、暗い映画』などで論じたように、現代映画の代表的な傾向の一つだと言えるが、他方で、先ほどのハイデガー哲学との関係だと、ハイデガーもまさに現存在に関心をもたらす契機を、「呼び声Ruf」と名づけて聴覚的な比喩で語っていたことを想起してもよいだろう。『関心領域』を観る私たち観客の鼓膜に反響するさまざまな「音」=「声」は、私たちに頽落したヘス邸の外部へと倫理的な想像を促す、まさに良心の呼び声Rufとして作用しているのだ。

 または、物語の最後でヘスが階段で嘔吐するシーンは、ジョシュア・オッペンハイマー監督のドキュメンタリー『アクト・オブ・キリング』で、やはり大量虐殺を行なってきたアンワル・コンゴが、映画の最後で自らが虐殺を行った実際の現場で突如漏らす嘔吐とオーヴァーラップして見える。


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