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変わらないようで変わる近世中期 吉村雅美

 シリーズ『日本近世史を見通す』(全7巻)の編者として、村和明氏とともに第2巻『伝統と改革の時代―近世中期―』(二〇二三年)の編集を担当した。対象とする時期は、概ね徳川綱吉政権期から寛政改革が始まる頃までに該当する(ただし、本巻収録の論文が扱う時期は、この範囲のみに収まるものではない)。この時期は、シリーズの通史編の前後の巻(第1巻・第3巻)に比べると、変化に乏しい地味な時代にみえるかもしれない。そのためか、テレビドラマなどで取り上げられる機会も多いとはいえない。しかし、二〇二三年のNHKドラマ「大奥」では徳川綱吉・徳川吉宗・田沼意次おきつぐの時代が取り上げられ、二〇二五年には蔦屋重三郎つたやじゅうざぶろうを主人公にした大河ドラマ「べらぼう」の放送が予定されている。一般にまったく馴染みのない時代というわけでもないであろう。

 本巻は、主に近世中期の政治史・対外関係史を扱っている。政治史に関しては、村和明氏(第1章)が綱吉から吉宗の時代の将軍側近と商人・碁打ちの関係を論じ、小倉宗氏(第2章)が吉宗政権の政策担当者の役割を政策ごとに具体的に提示した。高槻泰郎氏(第5章)は米価と貨幣価値の安定をめざした幕府の政策の推移を明らかにし、小関悠一郎氏(第6章)は幕府・諸藩において「改革」やそれに類する言葉がどのように用いられ、価値づけられたのかを論じている。また、対外関係史に関しては、彭浩氏(第3章)が長崎貿易の担い手である商人とその統制について、酒井雅代氏(第4章)が日朝関係を維持するために対馬つしま藩が実施した藩の制度変革について述べている。吉村(第7章)は、学問ネットワークの広まりとそれにともなう対外認識の形成過程を論じた。さらに、佐藤大介氏(コラムⅠ)は気候変動にともなう社会変容と人びとの対応について仙台藩の事例も交えつつ紹介し、春木晶子氏(コラムⅡ)はアイヌを描いた「夷酋列像いしゅうれつぞう」の制作背景と模写を通した広まりについて論じている。以上の各論考・コラムに共通する点を挙げるとすれば、政治や対外関係の「現場」で試行錯誤していた人びとの行動・思想や人間関係が、生々しく描き出されていることであるといえるだろう。

 ところで、数年前、筆者の勤務する大学に「政治や対外関係には興味がない」と話す学生がいた。もちろん、学生によって興味・関心は様々であるが、民衆史や文化史をより身近に感じる学生も多いようである。そのような学生にとって、本巻のテーマは少々とっつきにくいものにみえるかもしれない。

 しかしながら、本巻は必ずしも政治・対外関係のみを扱ったものではない。囲碁や詩歌(女性の和歌を含む)などの文化・芸能に関わる人々が登場する論文(第1章・第7章)、外国に由来する絵画の技法に触れたコラム(コラムⅡ)など、文化史と政治史・対外関係史を架橋する論考も含まれている。また、訴状箱に町人が投じた願書の扱い(第2章)、「改革」に対する民衆の反応(第6章)など、民衆と政治の関わりを論じたものもある。気候変動に関する研究(コラムⅠ)は、異常気象が続き、災害が頻発する現代を生きる私たちにとって無縁ではないであろう。「食わず嫌い」をせずに、興味のあるところから本書をめくっていただきたい。

 さて、本巻のタイトルは「伝統と改革の時代」である。変化の乏しい時代にみえがちであると述べたように、この時期の「改革」によって結局何が変わったのか、わかりにくいかもしれない。しかし、筆者が本巻のエピローグ「変わらないために変わる時代」で述べたように、近世中期は安定しているように見えて、変化を続けていた時代といえる。たとえば、幕府による貨幣改鋳は物価と貨幣価値の安定をはかるものであり(第5章)、幕府・諸藩による「改革」も社会の安定化をめざして標榜されたものであった(第6章)。対外関係の窓口である長崎では商人の統制をめぐる試行錯誤が繰り返され(第3章)、対馬藩は日朝関係を維持するために藩政改革を実施する必要に迫られた(第4章)。このように、幕府・藩の支配体制や対外関係を「変えず」に安定させるために、絶えず「変わる」ことが求められた時代であったといえよう。

『日本近世史を見通す②伝統と改革の時代』の書影

 「変わる」時代について述べてきたが、先日開催された本シリーズの編者・評者による討論会(第7巻『近世史の課題』〈仮題〉として刊行予定)では、研究者も自身が生きる時代の影響を受けているという議論となった。当日の討論では話すことができなかったが、近年は歴史学の研究とジェンダーの関わりについて、意識されるようになっている(歴史学研究会編『アカデミズムとジェンダー』績文堂出版、二〇二二年など)。この観点から時代の変化を振り返ると、筆者の学生時代(二〇〇〇年代初頭)には、大学・大学院で歴史学の講義やゼミを担当する教員のほとんどは男性であった。そのことも影響してか、女性である筆者が大学院進学を決意した時も、何らかの形で研究を続けたいと考えてはいたものの、大学教員という進路はまったく念頭に無かった。一方で、学部・大学院の在学中、同世代の学生・院生には女性も多かった。現在は大学教員も含めて、女性の歴史学研究者が増えつつある。筆者は時代の過渡期を経験した一人といえるのかもしれない。

 そのような筆者の学生時代には、ちょうどシリーズ『日本の時代史』(全三〇巻、吉川弘文館、二〇〇二~〇四年)が刊行されていた。筆者は対外関係史に関心を持っていたため、荒野泰典編『江戸幕府と東アジア』(第14巻)、藤田覚編『近代の胎動』(第17巻)、豊見山和行編『琉球・沖縄史の世界』(第18巻)、菊池勇夫編『蝦夷島と北方世界』(第19巻)などに刺激を受けたことを覚えている。ただし、いま改めてシリーズ全巻の執筆者・編者をみてみると、執筆者には女性も含まれているものの多くは男性であり、編者はすべて男性である(近世に該当する八巻を含む)。それでは、シリーズ『日本近世史を見通す』はいかがであろうか。編者一〇名のうち女性は筆者一名のみであり、女性執筆者も各巻九名ほどのうち〇~三名である。ジェンダーバランスについては、あまり変化がないといわざるをえない。

 もちろん、執筆者の性別と論文の価値はわけて考えるべきであり、巻ごとに内容のバランスを考慮した結果、このような配置となったことは想像に難くない。筆者も、女性であるからといってジェンダーをメインテーマとした研究を行っているわけではなく、研究対象のなかで「女性」を意識的に取り上げるようになったのも、ここ数年のことである。しかし、女子大学に勤務する者としては、本シリーズのような企画において女性の編者・執筆者が増えれば、学生にも自身により身近な問題として歴史学に向き合ってもらえるのではないか、そして研究職を志す学生や、卒業後も歴史学に関心を持ち続ける学生が増えるのではないかと思っている。

 本シリーズの企画が始まってから新型コロナウイルスが流行し、刊行までに時間がかかってしまった。その一方で、この間にオンラインによる会議が定着し、編者・執筆者間の意見交換がしやすかったという面もある。画面を通してではあるが、執筆者の方々と最新の研究成果について議論しながら、編著書をまとめることができたことは、貴重な経験となった。読者の皆様にも執筆者の議論の一端を感じ取っていただき、近世史への関心を深めていただければ幸いである。

(よしむら まさみ・日本女子大学文学部准教授) 


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