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『対決の東国史』刊行記念鼎談 変貌する東国史を読み解く #3

 2021年12月から刊行が始まり、おかげさまで売れ行きも好調な シリーズ『対決の東国史(全7巻)』。刊行前に収録された刊行記念鼎談を、6回に分けて特別公開いたします。
 著者である高橋秀樹・田中大喜・木下 聡の3名をお迎えし、企画のなれそめから、最新歴史研究トークまで、様々な話題が飛び交う盛沢山な内容になりました。
 今回は、第3回「列島のなかでの位置づけ」をお楽しみ下さい。当時の1番人気は○○氏!?

列島のなかでの位置づけ

木下 特に足利氏や新田氏は、東国だけでなく全国に基盤を持っています。東国史といわず、全国的な広がりになってしまうので、田中さんの『第3巻 足利氏と新田氏』は描くのが大変だったのではないですか。
田中 おっしゃるとおり、新田氏は九州や西国にも一族が展開して足利氏と争ったので、実際には東国に収まらない対決になりましたね。
高橋 そこがたぶん第1〜3巻と、第4〜7巻との差なのではないでしょうか。東国というエリアだけで見られる時代と、そうではない時代と。
 足利氏・新田氏の場合は、鑁阿寺(ばんなじ)とか長楽寺(ちようらくじ)に多少史料が残っているけど、北条氏と三浦氏は地元に史料が残っていないのです。だからやはり全国的な存在として見ていかざるを得ない。
田中 それは武士団としての存在形態の違いですね。
高橋 明らかに第1〜3巻までに出てくる武士団とは異なり、第4巻以降は、基本的に東国エリアの中に収まってしまう。京都からの視点がなかなか入り込めないという違いがあるかもしれないですよね。
木下 でも、背後に京都の思惑が転がっているということが、第4巻、5巻辺りではまだあるんですよね。応仁の乱の後ぐらいになると、幕府(将軍)が関東に文書を出して指令を出すということがほとんどなくなっていきます。
高橋 途中までは結構東国に行きたがっていたり、関わりたがっていたりするところもあるしね。
木下 ええ。足利義政が結構積極的にやっているのですが、僕が書いた第5巻では関東で失敗して、その後やる気を失ってしまいますが(笑)。また、関東といろいろつながりがあった細川氏は、勝元が亡くなって息子がまだ幼少だというので、あまり出てこなくなるというのもあります。第7巻ぐらいになると、また東国の枠を超えてくるという感じでしょうか。
田中 そうすると、第6巻はあまり東国と中央との関係が見えにくい感じになるのでしょうか。
木下 ただ、最終的に古河公方(こがくぼう)と小田原北条氏がくっついた証(あかし)となる、最後の古河公方の足利義氏は北条氏と近衛氏を通じて、ちゃんと将軍から義の字をもらっています。一応、古河公方は代々名前をもらっています。
田中 将軍との主従関係が続いているのですね。
木下 それは上杉氏を通じてで、古河公方が直接賜るのではないのです。そこに必ずワンクッション置いているので、公方が直接幕府と交渉するということをしないのです。
田中 関東管領を介して幕府と交渉するというあり方は、室町時代から続いているのですか。
木下 ええ。鎌倉公方時代からそうです。基本的に、関東管領の仕事は公方の補佐と、もう一つは京都との連絡です。そのため、山内上杉氏は在京雑掌を京都に常駐させている。判門田(はねだ)氏がいますし、犬懸(いぬがけ)上杉氏のほうはよく分からないのですが、後の時代にそれらしき者がいたのと、一族が京都にいます。
田中 上杉氏の一族のネットワークですか。
木下 それがあったと思います。何しろ関東管領が二人いたときの片割れが、関東管領を辞職するとか言って、認められないうちに信濃守護を持ったまま京都に行ってしまいます。おかげで信濃が京都のほうに移ってしまうのです。
高橋 直接的にしろ間接的にしろ、やはり京都を意識していますよね、常に。

―― 山内上杉氏は畿内との連絡役という話があったのですが、どういうルートを通っているのですか。

木下 山内上杉氏が具体的にどのルートを通ったかは分からないのですが、どのようにでも行けました。越後から日本海で行くにしても、越後上杉氏は山内上杉氏の分流ですし、中山道を使うと武蔵から上野、信濃へ行きますが、上野は山内上杉氏の守護国です。また、鎌倉街道沿いに結構拠点がありました。東海道も海を使うと六浦が山内上杉氏の所領なので、そのルートでも行けますね。
高橋 中世で海上交通は、今以上に重要だし、越後国奥山(おくやま)荘の三浦和田氏だって京都にいるときに越後で南朝方が蜂起して下向(げこう)を命じられると、「船でこれから行きますから」という書状を残している。速さを考えても、まず船で行くことを考えたのでしょうね。
木下 船は天気が悪いと進まないのですが、山崩れとか洪水で足止めされることがありません。
田中 そうですね。陸上交通はさらに河口域を渡るのが難しいですよね。
木下 北畠親房や義良(のりよし)親王みたいに船で流されるという例もありますけど。伊勢から出かけて伊勢に戻るとか、常陸とかいろいろなところにバラバラになるって、どういう嵐に遭ったらそうなるんだろう(笑)。新田氏も最後は結局東国に戻る感じですよね。
田中 そうですね。
木下 最近明らかにされているのは、後南朝勢力ですよね。南北朝が合一した後も元中年号(南朝方)をそのまま使い続ける新田一族がいて、以前疑問に思われていた文書が実は新田氏の文書だったという発見がありましたね。
田中 九州や西国で新田氏の活動がいつまで続いたのか、しっかり追ったことがないので分からないのですが、おそらく最後まで確認できるのは東国ではないでしょうか。やはり「新田」というブランドは、東国で一番威力を発揮できたように思います。
高橋 新田、足利、北条、三浦にしても、やはりブランドだよね。
木下 伊勢宗瑞自体は北条姓にはなっていませんが、晩年は三浦氏(佐原三浦氏の末裔)と相模東部で戦っています。なので、いわば「北条氏対三浦氏」の図式が一六世紀前半にもあるということになります。
高橋 中世を通じて、北条と三浦というブランドは関東には燦然(さんぜん)と輝いていたのでしょうね。やはり皆そのブランド名を名乗りたがったわけだし。
木下 三浦氏の子孫の蘆名(あしな)氏が戦国時代に三浦介(みうらのすけ)に任官していますね。あれなんかもたぶん三浦氏のブランドですよね。
高橋 そう。中国地方の平子(たいらこ)の三浦氏もそうでしょう。
木下 そうですね。
高橋 あれも足利義昭が毛利氏を頼ったときに、「三浦」の家の相続を認めてもらうんだよね。
木下 そうですね。
高橋 やはり「三浦」というブランドは中世を通じて大きかったのだと思います。近世になっても小説とか芝居の世界では主役になるわけだし。
木下 個人ではなくて名字ですものね。家としてですね。
高橋 そう。
木下 個人だったら畠山重忠とか、朝比奈義秀とかが有名ですが、家として三浦という形であるということ。
高橋 それがやはりブランドなんだよね。
木下 ええ。
高橋 だから南北朝時代になって、三浦和田や三浦深堀(ふかほり)のように、三浦の某(なにがし)というような名乗り方をする。三浦を意識した名乗りなのです。やはり北条はそこまでのブランドはない。
木下 まあそうですね。
高橋 小田原北条氏みたいなのはいるけれど、やはり三浦ブランドのほうが大きい。
田中 三浦も北条もブランドだったものの、ともに滅びたのは何か不思議な感じがしますね。
高橋 中世の人からすると、北条ってあまりいいブランドではなかったのかもしれないですね。

(4回目につづく)


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