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ドナウのほとり 小野 昭

 ドイツのドナウ川流域は、ネアンデルタール人をはじめ4万年位まえから歴史をたどることができる希有な地域です。新人(ホモ・サピエンス)がこの地に渡来し、女性像(ヴィーナス)、ライオンマン、楽器などさまざまな考古遺物を残しました。その後、紀元前8世紀にはケルト人が城塞遺跡を残し、煉瓦の壁が4メートルほどの高さで築かれました。紀元前1世紀にローマ軍により征服されるまでの数万年の歴史を、悠久なるドナウの流れに感じ取っていただきたい。

 はたと行きづまるときがある。考古資料がわずかで、解釈の可能性をいくつかに絞っても一つに収斂させることができず、いずれの場合でも反論可能な事態になるときである。仮説を立てても追証・反証の定点がきまらない場合もよくある。民族誌例に依拠して解釈する人もいるが、わたしはそれを避け、地域は離れていても同時代の遺跡で遺物がよく残っている事例を調べる方向で進んだ。

 氷河時代末のドナウ川源流域は日本列島の更新世末から完新世への移行期を調べる際、広域比較の可能性をそなえた地域である。考古学は対象とする時代の新古にかかわらず、現場での発掘、資料調査、見学など、体感的な認識を通過しないと理解が進まないことが多い。

 ドイツのフンボルト財団の奨学研究員として、一九七九年から一九八〇年にフランクフルト大学とテュービンゲン大学の考古学研究所に滞在する機会を得た。この時からドナウ川の源流と上流域に限定して資料調査をはじめ、特定の時代のテーマに集中した。だが、ドイツの南部を流れるドナウ川に展開する旧石器時代以降ローマの侵入までを通したこの地域の特徴はなにか。あるのか、ないのか、疑問が浮かぶ。遺跡の「点」を川の「線」で結ぶと、時代によって異なる集団が下流から上流へ、逆に上流から下流へ、また左岸(北)と右岸(南)の対峙の関係の中に特徴が浮かび上がる。

 新人、ドナウ川をさかのぼる 旧人(ネアンデルタール)の居住域に、アフリカから拡散した新人(ホモ・サピエンス)の一つのグループがドナウ川沿いに上流域まで到達する。このときネアンデルタール人はすでにこの地を離れて更に西方に移動していた。今から四万年近く前だがドナウの上流域の遺跡は年代がやや古いだけでなく、技術の複合的な革新と象徴性に富む文化の創造を果たした。さまざまな装飾品、動物、女性像(いわゆるヴィーナス)、ライオンとヒトが合体したライオンマン、楽器(フルート)や芸術品が爆発的に誕生するので「文化ポンプ仮説」が提出されるほどで、特筆される。最盛期の氷河の先端は、一番近いところでドナウの右岸八㌔まで迫っていた。 

 有畜農耕民もドナウ川をさかのぼる 後氷期の中石器時代狩猟民の世界は、急激に温暖化した環境下に広大な無氷空間が広がり、森林限界が上昇し動植物の生態環境が激変する。それに対応して自然環境と人類活動の相互関係は総論を脱して具体的に解明可能である。相互関係は因果関係としても追究可能であるが、さらに因果関係が破れる点の解明により単なる相互論をこえて生物(人類)の側が変化の主導を握っていることを事例でしめすことができるのである。そこに農耕民が大量に移住してくるというダイナミックな動きをドナウの上流域で観察できる。

 中部ヨーロッパに農耕社会が成立する大きな転換は、西アジアに発する有畜農耕民の大規模な移住によって説明されてきた。近年の人類集団に関する遺伝学的研究の成果もこれを大筋で追証している。ドナウに沿って集団移住した人びとはアルプスの北回りのグループである。農耕民が、耕地に適したドナウの上流域のレス土壌地帯にウシ、ブタをともない入ってきたとき、そこは旧石器時代に後続する後氷期の中石器時代狩集民の世界だった。集団の出会いによる対応モデルはいくつかあるが、一部が農耕民と並存し数百年以上を要して新石器時代に移行したようだ。レスと農耕民の遺跡の立地は強い因果関係にあるが、中石器時代の狩猟採集民とレス土壌との間には結びつきは無い。

 新石器時代の集落と住居の構造は、ドナウ川上流ではフェーダー湖の湖岸の杭上住居集落のアイヒビュール遺跡が著名である。湿地で木質の保存が良好で、ヨーロッパアルプスを囲む他の一一〇遺跡とともに二〇一一年にユネスコの世界文化遺産に登録された。

著書『ドナウの考古学』の書影

 青銅器・鉄器時代の物流 ドナウの上流域では新石器時代から青銅器時代への移行についてよくわからない点が多い。土器の編年でも空白部分が多い。鉄器時代(前期ハルシュタット期紀元前八五〇―前四五〇年、後期ラテーヌ期紀元前四五〇―前一五年)に入ると、大規模な墳丘墓や防御を固めた城塞集落が出現する。ケルト人の世界である。その最初の記述はヘロドトスの『歴史』の巻二の三三条に、「イストロス(ドナウ)川はケルト人の国にあるピュレネの町から発し……」とある。

 ピュレネの位置は確定していないがドナウの源流域、現在のジグマーリンゲンの町の東に隣接し、足下にドナウ川を見おろす高台に築かれた城塞集落のホイネブルクがこのピュレネだろうと推定する意見は根強い。ホイネブルクの城壁は「ローム煉瓦の壁」とよばれる。これはローム質の土を柔らかくして、枠にはめて型抜きして日に干すと、四〇×四〇㌢の直角四辺形で厚さ一〇㌢の日干し煉瓦となる。壁の基礎に石灰岩の割石を高さ一㍍程度組みその上にこの煉瓦を四㍍前後に積み上げる。鉄器時代後半のラテーヌ期初頭、紀元前六世紀後半で、城塞全体がこの壁で囲まれていた。この壁は在地の構築法には無く、地中海のギリシア植民都市の壁の構築法によく似る。そのため地中海地方の影響を受けた証として理解されている。

 このころは、地中海中部の都市から交易などで物流が北方へと広く展開した。特に古代ギリシア植民都市マッサリアは、こんにちの南仏マルセイユがその中心の一つである。マッサリアから北へローヌ川をさかのぼり、ブルゴーニュの谷を北上してスイスのバーゼルを抜け、さらに北に進めばそこはもうシュヴァルツヴァルト(黒い森)で、ドナウの源流域である。源流から一〇〇㌔下ればホイネブルクである。このルートで高級な陶器、青銅製の食器類、サンゴの装飾品、絹織物、ワインなどが運ばれた。ニワトリも交易品として南から搬入されたのである。

 ローマの将軍カエサルが『ガリア戦記』でケルトの防御集落をオッピドゥムと記したのでこの呼称が一般化した。オッピドゥムとは語源的には壁と溝で守られ防御された場所の意である。

 ホイネブルクに後続し、ラテーヌ期後期が中心のケルトのマンチン遺跡が、バイエルン州インゴルシュタット市の東にドナウ川の右岸にある。ケルトのウィンデリキー族のオッピドゥムといわれている。平地に築かれた巨大な城塞集落で広さは三八〇㌶、野球場の東京ドーム(四万六七五五平方㍍)の八倍強である。この集落を囲む壁は「ガリアの壁」とよばれ、これもカエサルの『ガリア戦記』にその構造の記述があるのでよく知られている。

 集落内での農業生産のほか、鉄器・青銅器の製作、鉛、貴金属や骨製品、牙製品、織物、ガラス生産の工房、金・銀貨幣の生産もあり、広い交易網をもった経済活動の中心地であった。これが平地の村かそれとも都市かで多くの議論があり、著書『ドナウの考古学』でやや詳しくふれた。

 ローマ軍、ドナウの右岸に迫る だが、紀元前一五年にはローマ軍がアルプスを越えドナウ川の右岸まで侵入した。マンチンもホイネブルクも破壊され、ケルトの部族の中心地の城塞集落はローマにより征服された。その後、ドナウの右岸に沿ってローマの辺境防壁(リーメス)が延々と築かれ、ドナウ川はそれまでの機能とはまるで性格の異なる帝国と部族集団が対峙する軍事的な境界に変貌した。それでもなお、さらに北方にはローマの支配に組み込まれない自由ゲルマーニアの領域が広がっていたのである。

(おの あきら・東京都立大学名誉教授) 


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