一九世紀の近世日本を取り巻く外圧と軍事技術革新 荒木裕行
現在発刊中のシリーズ『日本近世史を見通す』(全7巻)の第3巻『体制危機の到来―近世後期―』(二〇二四年)に編者として関わった。シリーズ全体については、小野将氏が説明してくれているので(「日本近世史を見通したい!」『本郷』一六八号)、ここでは私が直接担当した第3巻に限定して述べていきたい。
第3巻は通史編の最終刊であり、タイトルに端的に示されているように幕藩体制が危機に直面するようになった一九世紀を取り扱っている。ごく簡単に内容を紹介しておくと、第1章(清水光明氏)は寛政改革~大御所時代の政治と民間社会との相互の関係、第2章(佐藤雄介氏)は財政面からみる大御所時代~ペリー来航までの朝幕関係、第3章(山本英貴氏)は大御所時代に活発に行われた大名の官位昇進運動、第4章(荒木)はペリー来航期の新発田藩溝口直諒の幕政参画行動、第5章(谷本晃久氏)は近世蝦夷地の在地社会の様相、第6章(野尻泰弘氏)は天保~安政期の越前における民衆運動、第7章(小野将氏)は地球規模での政治・経済変動からみた日本の政治・外交について論じている。一九世紀日本を取り巻く諸問題をバランスよく取りあげることができたと考えている。
さて以下では、本巻を読んだうえで考えたことを、少し述べていきたい。編者としての立場ではなく読者として考えたことであって、他の編者や執筆者の考えとは関係ない、あくまでも荒木個人の考えである点には留意していただきたい。
近世後期を研究するにあたっての大きな目標・テーマの一つとして、なぜ近世日本は崩壊したのか、その原因はなんだったのか、というものがあるだろう。もちろん大局的な議論を行ったならば、多様な要因が絡み合うなかで様々な問題が生じ、近世的な仕組みでは対応しきれなくなった、というのが答えであって、結局のところ、徳川斉昭が「戊戌封事」で用いた「内憂外患」が近世日本解体の原因だったと結論づけてもよいであろう。ただ、本巻を通読した結果、内憂よりも外患が、より一層大きな比重を持っていたのだろうと感じた。
例えば、幕末政局で重要なファクターの一つとなり、最終的な討幕運動の核として機能した天皇・朝廷についても、ペリー来航前後までは幕府との関係は若干の問題はありながらも大きな齟齬を持つには至っていないことが佐藤論考では示されている。また、山本論考が取り扱う幕藩関係においては、大名は幕府の枠組みのなかで自己の地位を少しでも高めることに重点を置いて行動しており、幕府と藩とを基礎に据えた近世国家を揺るがす動きはそれほどみることはできない。野尻論考では、幕府によって決定された知行地割り当てに反発して訴願を繰り返す民衆の力量と幕府の統制力低下が描き出されるが、近世的な体制の打破につながるほどの影響力は持ちえていないと感じた。
本書所収論文以外の研究を踏まえても、国内的な矛盾については近世日本の政治体制を崩壊させるほどの大きなものにはなっておらず、外国勢力の接近という事態が発生しなければ、幕藩国家でも対処可能だったのではないかと考えている。西洋諸国による外圧が近世日本を崩壊させた最大の要因だろうというのが、現時点での個人的な理解となっている。
さて、外圧を考えるにあたっては、その具体的な内容にも注意を払う必要があるのは言うまでもないであろう。本巻中の荒木担当部分では、この点には触れることができなかったので、軍艦の性能に直接関わる技術革新だけに的を絞って、少し述べておきたい。
ペリー以前にも日本との通航・通交を意図して来航した外国船は数多い。結果的にはペリーが日本を開国させることに成功したが、その理由としては、ペリーの外交姿勢が従来のそれと比較して強圧的なものであったことに加えて、ペリーが率いた艦隊のなかに、それまで日本に来航していた船とは異なる蒸気船が含まれていた点を思いつけるだろう。情報としてのみ認識していた西洋の軍事力・技術力を眼前にした江戸幕府の役人が大きな衝撃を受けたことは容易に想像できる。
ペリー来航に前後する時期は、西洋では軍艦建造技術の変革期にあたっていた。一六~一七世紀に建造され始め、それから長い期間、西洋海軍で標準的な主力艦として用いられていた帆走戦列艦が、一八五〇年前後に急速に用いられなくなっている。それに代わった新たな軍艦に関わる技術的革新としては、蒸気機関の実用化・炸裂弾への移行・装甲の装備の三つを主要なものとして挙げることができる。
蒸気機関はすでに一八世紀後半には実際に利用されていたが、蒸気船の実用化は一八〇七年のことであり、その後も安定性の問題などにより内陸河川での使用に限定された。外洋航行が可能となった後も軍艦への導入は遅れたが、一八二〇年代には軍艦としての蒸気船も出現した。蒸気船は風の状況に左右されないため帆船よりも自由に航行でき、悪天候時や海岸付近・河川での行動も可能で、作戦・戦術の可能性が大きく広がった。さらに一八四〇年代には外輪に代わってスクリューを利用する船も出現し、一八五〇年にはフランス海軍が初のスクリュー方式の戦列艦を進水させている。スクリュー船は外輪船と比較して多くの武装を舷側に装備することができ、軍艦の戦闘力を向上させた。
炸裂弾は一七世紀末には海軍で利用され始めたが、取り扱い上の理由により軍艦での利用はあまり進まなかった。一八二〇年代にペクサン砲が開発され、軍艦の平射砲でも炸裂弾が使用可能となり、アメリカ海軍では一八四〇年代から軍艦への搭載を開始した。ペリー来航と同年の一八五三年にはクリミア戦争のシノープ沖海戦でペクサン砲を搭載したロシア海軍がオスマン海軍を撃破している。炸裂弾の登場は木造船にとって大きな脅威であり、鉄・鋼鉄製の装甲を持つ軍艦が登場し、一八五〇年代に蒸気機関とともに普及していった(戊辰戦争時に新政府が所有していた甲鉄艦は、装甲を有するスクリュー船である)。その後、一八六〇年代には回転砲塔・魚雷・潜水艦などさらなる新技術が開発されている。
このように軍艦の技術発達が進む状況下で、ペリーは日本に来航した。艦隊旗艦のサスケハナの武装は一五〇ポンドのライフル砲や口径二三センチの滑空砲であり、一八四六年に浦賀に来航したビッドル艦隊とは世代の異なる新型砲を装備していた。ペリー艦隊来航により、それまで以上の強力な軍事力に日本は直面したことになる。ペリー来航前後から維新期について分析する上では、世界的な軍事技術革新の時期にあたっていたという点を視野に入れておく必要があると考えている。
(あらき ひろゆき・東京大学史料編纂所准教授)