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アイヌと岩内町のはじまり。

北海道、積丹半島(西海岸)の付け根にある岩内町。
岩内町郷土館では「岩内地方のアイヌの生活展」が開催中で、木田金次郎美術館では「アイヌ語地名と木田金次郎」の特別展示がはじまりました。

町内や近隣に住んでいる外国人さんは、「イワナイ モ アイヌ イタノ?」と興味がある様子。むか〜し、むかしに遡ってのお話です。

岩内町は室町時代から和人(日本人)が往来してます。この時期に住んでいたのは、先住民のアイヌの人たちでした。

北海道(蝦夷地)が松前藩の支配下におかれると、藩は家臣に一定の長さと奥行きをもった海岸沿いの土地を「知行地」として与えます。これを「場所」と言います。本州の大名は米の獲れる土地を家臣に与えましたが、北海道では米が獲れないので、その米に代わる魚介類が捕れる海岸地方を与えたのです。

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東西蝦夷山川地理取調図
木田金次郎美術館-「アイヌ語地名と木田金次郎」
http://www.kidakinjiro.com/exhibition.html

場所の経営を任された家臣は、漁の時期になると知行地に人を送り、アイヌの人たちが漁獲したものを買い上げ(物々交換)、それを松前の商人に売り、それが俸禄(給料)なったのです。

取引が徐々に大きくなると、利益を追求するあまりに和人(武士)側からの要求が程度を超えるようになります。そのため、アイヌの労働意欲が衰えたり反発が広がり、それが藩の財政悪化につながりました。また、商人から借金をする武士も現れ、武士の商法がうまくいかなくなります。

シリフカ(堀株)のアイヌ酋長カンニシコルの訴状
・・・松前志摩守様の時には、米二斗入り大俵でもって干鮭五束(100本)との御交換でした。近年 蔵人(くらんど)様の扱いになってからは、米七、八升入にて干鮭五束ずつの御交換・・・松前よりお越しになり・・・鮭を自由気ままにとり・・鮭がなくなり、私たちは餓死します・・・
   -「津軽一統史」より-  寛文9年(1669年)の頃

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そこで松前藩は場所を、現物税と営業税(運上金)などを払うことを条件にして、藩の御用商人に請け負わせることにします。これを「場所請負人制度」といい、請負人を場所請負人といいました。

請負人は松前(福山)に住んでいて、雇い人(アイヌ語通訳・帳場・番人など)を漁期になると場所に派遣して、アイヌを働かせて漁獲物を松前に送ります。
雇い人は漁期が終わると松前に帰りました。

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文庫箱
たくさんの種類の家紋があしらわれています。これはアイヌと交易をするうえで、アイヌの為に作られた製品です。
-岩内町郷土館-「岩内地方とアイヌの生活展」
http://www.iwanaikyoudokan.com/kikaku.html

御用商人は、これらの漁獲物(塩ジャケ・干しニシン・コンブ・干しアワビ・ニシン粕)や熊・鹿の皮などをまとめて大阪などで売り、その売上金の中から税金(運上金)を藩に収めました。
これが藩の財政を支えてたのです。この漁獲物を運んだのが「弁財船」(北前船)でした。
本州と北海道間の物資の輸送を引き受けた船主は、一往復で1,000両という大きな利益を得ました。この金額は弁財船一隻を新たに建造することが出来たといわれています。

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岩内場所は、最初は松前藩の家老の知行地でした、その後は藩の直領になりました。この場所請負人の一人「恵比寿屋岡田弥三右衛門」の記録によると。
1751年(宝暦元年) 。番頭が一年中、岩内に住んだという記録があります。
これが「岩内町のはじまり」になっています。
来年(2021年)は、270年を迎えます。


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