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創作大賞感想【『月に背いて』『日輪』/渡邊有】

前半がネタバレ無し、後半がネタバレありになっています。
ネタバレタグをつけると、避けてしまう方もいらっしゃると思うので、先に断り書きをつけることにしました。よろしくお願いします。

渡邊有さんのことを知ったのは、海人さんの紹介記事だった。

 ほぼ1年後に、この記事に名前がある全員が「吉穂堂」に集結するとはだれが想像しただろうか―――。

 さて、一番上の紹介記事『noteで書く小説②』で海人さんは、渡邉有さんを絶賛している。

抒情豊かな世界観、透明で少しはかなさも感じる余韻など、非常に渡邊さんらしい作品になっていると思います。

『noteで書く小説②』より

 その渡邊さんの作品(昨年の創作大賞の応募作品)は、『弦月』だった。

 私も、この作品のギリギリ感、すれすれ感、というのだろうか、日常と非日常、狂気と正気の「あわい」のような世界観が、たまらない魅力だと感じた。

 そして満を持して送る今年の応募作は、2作品だ。

 渡邊さんご自身のあとがきによると、『日輪』は『月に背いて』の続編のような内容ながら、あまりにストレートにつなげると凄惨さが増す、ということで、別の世界線での出来事として描いた、とおっしゃっている。

 『月に背いて』は、高校時代に好きだった先生と、7年後に再会する話である。
 そう聞いて、皆さんはどんなことを想像するだろうか。おお、なんか色っぽい感じだね、ついに大人の交際ができたわけだね、と思っただろうか。
 さにあらず。
 高校教師と生徒というのは、現実世界では結構あるあるなのだが、小説世界では「切ない恋」がお約束である。そしてこのお話は、「切な過ぎる恋」である。胸がキュンキュンレベルではない。締め付けられ、うぉぉと唸りたくなるくらいの切なさレベル。

 再会した時、先生は妻を癌で亡くしていた。高校時代から先生が好きだった元生徒(現看護師)である葉月は先生の傷つき疲れ果てた心を受け止めたいと願うのだが、二人の心は近づきそうで近づけない。そんなふたりが、どんな選択をするかが描かれている。しかも、おさえ目の筆致だが、「教師と生徒もの(昔で言うと『高校教師』みたいな)」を1とすると、10~30%増のエロティシズムを体感できるはずだ。

 『日輪』は、妻が乳癌を患い、治療をしていく中で、夫婦のきずなが問われていく話である。渡邉さんのあとがきからも察せられるように、もともとは、『月に背いて』の先生の話だろうと思われるが、別人の、別の話になっている。
 これも、今、淡々と筋を書いた文章からは想像を裏切られるボリュームの「せつなさ」が詰まっている。いや、こちらはもう少し「むき出しの感情」が詰まっている、と言うべきだろうか。とにかく渡邉さんの「せつなさ含量レベル」は常に「通常の3倍」である。『月に背いて』が「唸りレベル」なら、こちらは「身もだえレベル」だ。

 どちらも完結しているので、一気読みをお勧めする。というより、読み始めたら最後、ノンストップである。主人公の揺れ動く気持ち、抜き差しならない状況などに、唸り、身もだえしながら読むことになる。

 さあ、みなさんもぜひ、タップ&クリックで渡邉有ワールドへ。

 というわけで、恒例になりつつあるが、ここからは華々しくネタバレしていく。2つの作品についてそれぞれ語りたいことがあるので、少し長くなる。
 これから読むんだから!という方は、ここまでで。
 私の感想文は、ネタバレ必須なのである。御免。



『月に背いて』


 読後感が後を引く。この小説は、常に音が響いている。
 ホラー映画には効果的な音が使われているものだ。雨の音、風の音、川の音、パンッという破裂音、何かが割れる音、ずざざざ、という砂利や葉音、カラスの鳴き声やぎぎぎぃ、となる扉の音。
 満ちている。最初から最後まで、音が満ちている。

 主人公の葉月は、子供のころは結構霊感の強い子供だったらしい。人の死期や事故を予知したり、明確ではないが、わかってしまう体質である。大人になってからはあまり感じなくなり、看護師をしていても気にせず仕事ができる程度には、霊感感度が落ちている。
 対して先生は、妻を亡くしてから「猫が見える」という。だいぶメンタルがやられている。物語が進んでいくと、それが、妻が病で亡くなる以前からあることがわかってくる。先生も実はちょっとした霊感体質である。
 そんな二人だから、現実世界においてのコミュニケーションが少し人とは違うようだ。特に先生は、結婚生活においても妻と感情的なすれ違いが多かったようだし、葉月とつき合い始めても、決して自分の内側を見せない。行為や行動は情熱的でも、心は常に閉ざしたままだ。

 二人は、すでに出会いの時から惹かれあっていた。
 恋に落ちた瞬間がわりとくっきりしている。化学準備室で(化学準備室と聞くと『時をかける少女』を思い出す)、親を亡くした葉月の心を慮って相談に乗ろうとする先生。ある時野球部が振り回したバットが窓を割って飛び込んできて、とっさに先生は葉月を守る。
 このシーンは、まるでスローモーションのように葉月と、読者の心に残る。効果音「ドキュン」な場面である。若干の「つり橋効果」もありそうだが、もともと惹かれあっていたのだからもういけない。
 葉月と先生はお互いに気になりながらももちろん、何事もなく卒業していく。大人になって、たまたま噂を聞く。たまたま、先生に遭遇する。
 ―――と書いているが「たまたま」なんてことはない。まるで磁力か魔力が働いているかのような「めぐりあわせ」の展開だ。

 このあたりも、じわじわと「来るな、来るな」という映画的要素がてんこ盛りで、ふたりが急速に近づくのを、読者は「ああ、やばい。会っちゃうよ、会っちゃうよ」みたな気持ちで読むことになる。高校のころから大人っぽかったよね、とか先生は言う。ヤバいよこの先生。笑

 ここからの二人の交際は本当に危うげで、しかもバックグラウンドでは、先生の妻なのであろうか、霊的な世界がふんだんに音を立てている。
 最大は「人の声がした」と言う場面なのだが、もう、この辺は読んでいてゾッとした。半分「陰」「闇」に引きこまれている二人は、その異常さに気づいていない。あるいは気づいていないふりをしている。

 彼らはもしかしたら、ある程度順調に交際をして、何年か後に普通に再婚して、という未来があったかもしれない。元教師と生徒でも、当時からそういう関係だったわけではなく、大人になってからの状況だけ考えれば、別に変な関係ではないし、誰かに責められるような、おかしなことでもない。

 しかし、彼らは「ぎりぎり心中しなかった」カップルになる。あっちの世界に引っ張られないでよかったね、というギリギリ感だ。たまたま、天然に葉月の危機をキャッチした男の子がひっぱりあげてくれなかったら、闇の世界に引きずり込まれていただろう。でもこれは、あらゆる不倫カップルにある泥沼感、な気がする。悲しみと、苦しみと、罪の意識と、ペナルティ感と贖罪とがごちゃまぜになった感情が渦を巻いている。救おうとした側も引っ張り込まれる闇。おそらく、このふたりが付き合っている間二人の世界では「妻」は死んでいなかったのだろう。だから感覚的に不倫なのだ。

 なんとなく、昔の映画『インファナル・アフェア』を思い出した。何十年も潜入捜査を続ける刑事ヤンは、眠れなくていつも精神科医の女性リーのところにカウンセリングに来ては、ただ寝ていく。リーはヤンを救いたいと願い、愛してしまう。互いに惹かれあうが結ばれないふたり(後日譚もエグいけど)。この『インファナル・アフェア』のパターンは、なんと『仮面ライダーブレイド』にも引き継がれている。ブレイドでは精神科医の女性は怪物に襲われて亡くなってしまうのだが―――癒す女と闇の深い男のラブストーリーには、やはり悲劇性がつきまとう。

 渡邉さんの小説は、不吉さや禍々しさ、不気味さを内包した純日本的な世界観と通じていると思う。実際、この小説の中で、葉月の家は古い日本家屋である。もうそれだけでじめっとした、ねっとりした雰囲気が全体を覆う。葉月がモダンなマンションに住んでいたら、この小説は台無しな感じがする。風が窓をガタガタ鳴らすような、日が差さない場所のある、障子や襖が陰影を作る「The陰翳礼讃」な家屋だからこそ、この小説が活きていると思う。ファンにはたまらない、渡邉節、真骨頂の小説である。

『日輪』


 こちらは打って変わって、背景が白い。
 ネガとポジなら、ポジなのだが、常に白飛びしているような画面だ。最初のシーンは、検査結果を聞きに病院に行く朝なのだが、真っ白な部屋でふたりで向き合っているような、しんとした静謐さがある。頻繁に登場する病院の「白さ」ともあいまって、全体的にぼんやりと白い画面が、治療が進むにつれ、色がついていって、最後に海に行くシーンでは、夫は、鮮やかでくっきりした妻の姿を目に焼き付ける。とても印象的な場面だ。

 当初、妻の紗季は淡々としているようにみえるが、夫の圭はそんなはずはない、彼女は言いたいことを押さえつけている、と感じている。この時点ではまだ「結果」が出ていない。不穏な朝である。

 若い女性の、女性特有の疾患、特に癌となると、他の臓器とは違う「意味」を帯びる。夫とは決して感覚を共有できない臓器。それは、決して共有できない心でもある。たとえば男性も有する臓器であればそこまでセンシティブに感じることがないかもしれない感情を、女性は強く感じることになる。それはもちろん、逆もしかりだ。
 たとえ同じ臓器を有していても、病気はひとりの、孤独な戦いである。
 にもかかわらず、女性特有の臓器はその陰影を増す。特に、女性の年齢が若い場合、閉経前、出産前、性交前と言った段階の女性の辛さや悲痛さは、男性には決して踏み込めない「立ち入り禁止」区域と言ってもいいだろう。

 足並みのそろわない感情は、検査の結果が出て、治療が進んでいくとどんどん、不協和音になっていく。最初は茫然としていたが、次第に激しく感情をぶつけてくる紗季を、もともと相手の気持ちを察したり、感情表現をすることの苦手な圭は持て余してしまう。紗季自身も、自分の感情の矛先をどこに向ければいいかわからない。時には、「相手を思うあまり頼る先を間違えてしまう」。そのすれ違っていくさまが、克明に、繊細に、見事に表現されていて、素晴らしい。

 蛇足だが、紗季がうっかり連絡を取ってしまった元カレはいかん。結婚しなくてよかった。別れた彼女が友達と結婚して面白くなかったのか知らないが、誰に対してでも他人の病気のことを気軽に口走る人は信用がおけない。よく十年もつきあったものだ。プンスカ。
 それと、圭の元カノも微妙なことを言ってくる。「話を聞いてあげればいいんだよ」っていうのは自分の時の経験からなのかもしれないが、病気療養のときは話が違う。前述のような病気特有の理由で、圭の特性のせいだけではなく、話したくない場合もあれば、話を聞くことが容易でないことというのがあるのだ。生半可な共感が逆効果なことも。彼女とも、別れてよかった。うん。

 圭は時々、自分のドッペルゲンガーを見る。中学時代から時々みるそのドッペルゲンガーが、次第に近づいてきているような気がしている。
 圭は少し、離人症気味なのかもしれない。
 高校時代に出会い、友人と十年つきあっていた女性を妻にした圭。結婚後すぐに不妊治療に通い始めたが三年経っても妊娠しなかった紗季。不妊治療の末、間がぎくしゃくする夫婦は多いが、とくに紗季は、圭の感情表現の少なさ、受け止めのない振舞いなどに、ずいぶん苛立ち、悲しんでいたようだ。

 昭和のころ、いつだったか、「女性のがんは夫が発見するものなんですって。私は夫がみつけてくれなかったもので」と言っていた女優さんがいた。テレビで言ったのを小耳にはさんだだけだからうろ覚えなのだが、要するに「性生活があれば発見できて当然」みたいな、暗に「それだけ妻に無関心」を揶揄する言葉だったようだ。
 当時の私は、自分の身体は自分のものなのだから、他人のものみたいな言い方したらだめじゃないかな、と思った気がする。

 このお話の中でも、圭が、最後に妻に触れたのはいつのことだったか、どうして見つけてあげられなかったのか、なぜ妻は黙っていたのだろう、と思う場面があって、ふと、この話を思い出した。紗季のなかにも、あの女優さんのような感情があったのだろうか。そしてどうしてこの病は、「罪と罰」のような特性を伴うのだろう、と思った。

 患者は、ある日突然患者になる。
 患者の家族も、ある日突然、患者の家族になる。
 それを認め、受け入れていくのに、どうしても時間がかかる。紗季の病院はとても親切で、患者の気持ちを優先してくれるいい病院のようだが、それでも試行錯誤しながら、ぶつかり合いながら、お互いの感情の落としどころをみつけていくしかない。

 看護師のお仕事をされている作者・渡邉さんの知識と経験をふんだんに盛り込んだ病院での描写や経過のリアリティもさすがだ。病気によって試されていく夫婦の姿が痛々しく、正直、目をそむけたくなるような、逃げたくなるような場面も、渡邉さんは丁寧に描き切る。
 希望のあるラストシーンが、胸に残る。
 紗季が寛解しますように、と願ってやまない。