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『眠る女』あとがき

 創作大賞用の作品を投稿し終えたので、今は創作大賞参加作品の感想にかかっている。感想を書いておきたい作品が沢山ある。まだ読んでいない作品も、その倍以上、ある。
 
 完結してから感想を書こうと思っているので、それまでコメントは控えている。完結した作品から、順不同で、少しずつ感想を投稿していこうと思っている。

 『眠る女』は、以前書いて時々手を入れながら放置していた。
 このたび創作大賞に参加しようと思って大幅に手を入れてみた。

 私にとって過去作は過去作ではない、というようなところがある。
 投稿したり、本にするまでは、無限に改稿していいと思っている。宮沢賢治の『永久の未完成これ完成である』だ。
  完成していて、未完成。未完成だけど、完成している。

 今回の改稿は、若い時の自分と対話するような体験だった。あのころの感情を、当時のまま表現しているところは消したくないと思ったが、かといって話の本筋からそれてしまう部分はやはり、要らない。

 若いころ、自分はだいぶ攻撃的だった。何ごとにおいてもギシギシとした感覚を抱いていて、それを作品にも反映させていた。『眠る女』の中の葵は、名前も違っていたが、もっと剣呑な性格だった。カオルに対しては贖罪を求めたし、時生に対しても、恨みつらみがあった。

 時間が経って固まっていたそれらを、ちょっと搗いてほぐして、伸ばして丸めて、なんとなく今の自分にも咀嚼できるような形に収めた。

 フレッシュではなくなったけれど、味わいはいい塩梅になった気がする。

 他の人が読んでどう、ということはあまり考えなかった。自分の過去と向き合っていた。最初の原稿を書いたころの自分と。

 少し前「燃え尽きた」と言って、気力を失っていた時は、目標を見失い、なんで書いているのかわからなくなっていた。
 もともと無い自信をさらに失って、不安ばかりが先行して、後ろ向きな気持ちになっていた。

 ずっと、「書くのが楽しいから書く」、が信条だった。

 誰かに認めてもらうためとか、作家になるためとか、デビューするためとか、そういうことのために書いているのではなく、ただ純粋に、楽しかったから書いていた。
 もし、本気でそういった願望が強かったなら、これまでの、まあ長い人生の間に、なにがしかの行動をとっていたはずだ。自信がないとか怖いとか、そういうこともあったけれど、それでもきっと、そうしていたはずだ。

 そうしなかったんだから、違うんだろ。
 原点はそこなんだから、それでいいじゃないか、と思った。

 おそるおそる、改稿していった。
 そうしたら、だんだん、楽しくなってきた。
 ピアノは弾いているうちに思い出す。走り方は走っているうちに思い出す。なんでも、やっているうちに「なんで」「どうやって」を思い出すんだなと思った。

 書いていたら、意外と多くの方に読んでもらうことができた。続きが気になる、と言ってくれた人もいたし、読み応えがあった、と言ってくれた人もいた。それが無上の喜びだった。

  ああそうか。
 「書く楽しさ」の先にはやっぱり「読んでもらう楽しさ」もあるんだ。

 読んでもらって、何が楽しいか、というと、自分の作品について、他の人と話ができることだ。葵、と言ったら「ああ、あの、寝られなくて困ってたのに、急に眠り過ぎになった人」とか、カオル、と言ったら「ああいうタイプ、ちょっと困るよね」と話せること。
 自分の作品を共有できる喜び。

 だから、感想を書こう、と思った。
 感想を書く、ということは、書いた人の「書く楽しさ」を引き受けていくことだ。
 書いて、読んで、読まれて、書いて。
 それができるのがnoteだから。


 最後にどうしても伝えたいこと。

 『眠る女』を最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

 そしてまた、KaoRu IsjDhaさんのトップ画のおかげで、沢山の方に読んでいただくことができました。
 あとがきにも、KaoRuさんの美しいイラストを使わせていただきました。
 KaoRuさん、ありがとうございます!

 
 
 

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