エジプト諜報機関支配下のカイロ大学―軍諜報部・中央治安部隊・情報総局の三つ巴の権力抗争
「カイロ大学声明の本質②ーカイロ大学の権力と腐敗の構造」で、カイロ大学で保管される小池百合子氏の“学生ファイル”は軍事機密であると説明した。
それにしてもなぜ、大学の中に小池ファイルを守る軍人が配置されているのか。エジプト軍部や情報部のカイロ大学への介入の歴史からその真相を紐解くとともに、権力中枢にいた小池氏の“エジプトの父”ハーテム元情報相の役割にも迫っていく。
まず、カイロ大学を目下監視・支配しているのは誰なのか説明していこう。
陸軍系人材がキャンパスを支配
カイロ大学の各門には、学生・教職員のIDを確認し、金属探知機で荷物をチェックする警備員が構えている。ここまでは日本の「警備員」とそう変わらない。問題は彼らの属性だ。
カイロ大学警備局長は、元エジプト陸軍大佐で国境警備隊長である。軍直属のポストであり、その息のかかった陸軍系人材がカイロ大学門を統制下に置いているという構図だ。
複数の陸軍大将がカイロ大学キャンパス内外のさまざまな役職に任命されている。支配しているのは警備局にとどまらない。
例えば、
学生寮から大学の事務、学長室、財務管理に至るまで、カイロ大学の様々な部門を陸軍人材が抑えていることが分かる。
「大学の自治」「学問の自由」への侵害だ、と抗議しても無駄である。
エジプト・アラブ共和国1966年法律第25号では、「軍人が職務遂行中に犯したすべての犯罪、あるいは職務の範囲外における犯罪であっても、軍事司法の管轄対象とする」と規定されている。
しかし、革命と愛国の象徴である軍人に声を上げても、逆に訴えた側が裁かれる可能性が高い。
まして軍人となれば、革命と愛国の象徴であり、無謬性を享受する。
さらにカイロ大学の周辺を回ると、要所に警備員と違ったユニフォームを着た武装スタッフがいる。彼らこそは“その道のプロ”、エジプト軍事情報部の天下り先であるセキュリティ企業「ファルコン」のメンバーだ。
同社CEOは元陸軍諜報将校で、元エジプト・テレビラジオ連合安全保障局長のシュリフ・ハーリッドである。彼は、諜報将校から情報相となり、同連合を一から創設した小池氏の"エジプトの父"ハーテム権力の直系人脈と言える。
彼が請け負うのは物理的なセキュリティ業務だけではない。大学内部に入り込み、サイバー空間での教授・学生の監視から、卒業者名簿のデータ管理、証明書用のセキュリティプルーフ用紙の手配・印刷まで行っている。
こうした陸軍系と諜報系のプロが一体となり、小池氏の“卒業”記録を機密化したとすれば、その詐称証明のハードルがいかに高いかは想像に難くないだろう。
エジプトには情報規制法第180号等、教職員と学生の個人の活動をサイバー空間で常時監視、統制できる法律が制定されている。軍情報閥企業はやりたい放題である。
ファルコンは、エジプトの民間テレビ局・アルハヤトTVをはじめ、新聞、雑誌なども飲み込んでメディア買収を繰り返してきた。カイロ大学を支配するだけでは飽き足らず、“エジプトの情報空間”そのものを掌握しようとしているのだ。
傘下に入ったメディアはカイロ大学出身者が作り上げてきたものだ。例えば、アルハヤトTVのルーツはワフド党の機関紙だが、党はカイロ大学の建学者サード・ザグルールらがエジプトの自由と独立を求めて結党したものである。
エジプト軍情報閥系メディアの代表格がDMCテレビネットワークだ。当局のお墨付きで特定場所の撮影権を独占している。軍の諜報機関の代弁者として、彼らの宣伝意図に添って番組を制作しているのだ。そのDMCの特集番組に小池氏は登場した。
2018年8月30日、都庁でインタビューに応じた小池氏は「私は100%エジプト人なの」と語り、その模様はエジプト全国に放映されたのだ。
カイロ大学声明を出した現学長・フシュト氏はファルコン派(軍事情報部の使用人)である。大学のルールに反して、付属病院や新設される学部の開発・建設プロジェクトをこうした軍閥企業に発注している。
中央治安部隊と情報総局
ふたたびカイロ大学の周りを見てみよう。門外には「中央治安部隊」が配備されている駐屯所がある。同部隊は軍部に属さない内務省・国家安全治保障局の所管であり、建前としてはカイロ大学は文民統制下ということになっている。
しかし、名前から察せられるように、中央治安部隊の実態は国家の治安を司る”準軍事組織”である。サダト大統領時代(1970-1981)に肥大化する軍事情報部に対抗するために組織され、傘下にナイルバレー社などの治安閥系天下り企業を抱える。ナイルバレーはファルコンのライバル企業である。
中央治安部隊の権限が肥大化していったのが、ムバラク大統領時代(1981-2011)だ。同部隊が大統領に反乱を起こした結果、ムバラクが「情報総庁*」(*エジプトのCIAと呼ばれる諜報機関、ハーテム氏は創設者の一人)に一部権限移譲をしたという過去がある。情報総庁は建付け上、軍からも省庁からも独立した機関である。
軍直轄の情報部でも内務省下の治安部隊でもなく、情報総庁の高官にムバラク大統領は利権を提供し、天下り会社を通じて暴利を貪らせていく。代わりに大統領と家族の身を守ってくれる親衛部隊を形成させた。同時に、反ムバラク政権の思想を持つカイロ大学にも親衛隊の下部組織を作っていった。
カイロ大学のパワーバランスにおいて、情報総局の存在が飛躍的に高まったのがムバラク時代であった。
そんな中、2013年にカイロ大支配の本家である軍事情報部がクーデターを起こす。そのトップに君臨していたシシ(現)大統領は政権、そしてカイロ大学からムバラク派を追放していく。代わりに大学幹部として送り込まれたのが陸軍将校たちであった。
とはいえ、治安部隊と情報総局が大学から消えたわけではない。陸軍及びその情報部、治安部隊、諜報機関が三つ巴でカイロ大学の支配権を争っているのだ。
声を上げる学生は消される
こういった大学支配に対して、学生たちも果敢に異議申し立てやデモ活動を展開している。しかし、その結果は厳しいものだ。2010年以降に限っても、100人以上もの学生が逮捕され、10人近くが亡くなった。
殺害した組織はその死を「超法規的な死」と表現する。そして生き残った学生も軍事法廷で裁かれてしまうことが多い。
当局の厳しい鎮圧が表沙汰になることもある。工学部1年のレダ君が命を落としたケースでは、10数人の目撃者がいて、国際的な人権団体も事態を詳しく記録した。
という生々しい証言や記録が残されている。
殺傷事件を起こした組織は罰せられたのか。
答えはノーだ。エジプトにこんな閣議決定がある。
理由の如何に関わらず、学長の通告することなく、“国家安全保障”関係者はカイロ大学キャンパス内に自由に立ち入り可能と定めたものだ。
筆者もカイロ大学時代、何度も留置所や独房にぶち込まれ拷問も受けた。当時、筆者は“敵国”であるイスラエルの言語・ヘブライ語を学ぶ学科に在籍していた。そのためスパイ容疑をかけられたというわけだ。両国は1979年に平和条約を締結済みであるにも関わらず、だ。
とにかく拷問はエジプトの国策であり、何ら珍しいことではない。
ヒューマン・ライツ・ウォッチ中東地域ディレクター・アブドゥルラジク氏は「国連の拷問に関する特別報告書」(1996年)の中で、エジプトにおける一連の拷問をこう表現する。
エジプトには「拷問博物館」があるほど、拷問の歴史が古くからある。CIAをはじめ、世界中から拷問目的で囚人がエジプトに移送されるとされ、その技術は高く評価されている。エジプトは、いわば"拷問先進国"なのだ。
「強制失踪」というエジプト独自の取り締まり方法で、秘密裏に拘束され存在を消されそうになることすらある。裁判も受けられず、拷問を受け留置所をたらい回しにされながら、最後は「行方不明」という形でこの世を去っていくのだ。
この強制失踪事件が表沙汰になった一件がある。
カイロの「労働組合と権力支配の関係」を研究テーマにしていたイタリア人留学生レジェニ氏が失踪後、1週間の拷問を受け殺害されてしまった事件だ。エジプト治安当局は死体を切断後、高速道路に放置。さらに路上での性的暴行を加えたという。車にひかれた事故に見せかけたが結局発覚してしまった。
ここまでの話は極端な事例ではないか? そんな疑問がわくかもしれない。しかし、レジェ二氏の事例*とて「4253分の1」に過ぎないのが現実だ。
*イタリア、殺害に関与した4人の情報員の被告に対する裁判が続いているが、被告の情報員はすべて欠席。エジプト当局は訴えられた仕返しに、レジェニ家族及び「強制失踪家族の会」の顧問弁護士を拘束中である。起訴状によれば弁護士は「政府転覆罪、内乱罪、公共の利益を害する虚偽の風説流布な10件の罪」を犯したという。エジプト治安権力による典型的なでっちあげだ。
国連拷問委員会の2023年報告書によれば、この10年(2015年~2024年)で確認できた強制失踪事件だけで4253件あるのだという。
強制失踪はアラビア語のスラングで「太陽の裏側に隠された」と表現される。権力者への恐れから口をつぐみ、暗黒の運命を受け入れるしかない悲しい表現である。筆者は幸い太陽の裏側から生還できたが、拷問を受けたことは強烈な体験として残り、そこからカイロ大学の歴史や権力構造の闇について興味を持ち、独自調査をしてきた。
メディア学部が光らす監視の眼
カイロ大学の最高権力、そして軍直属である情報部には表立った事務所はない。しかし、メディア学部に諜報部員が深く入り込んでいる。メディア学部の実態は、政権に従順なプロパガンダ専門家の養成機関である。
また、メディア学部は「カイロ大学全体を監視する」使命も帯びている。学部の前身を作ったハーテム氏は社会主義同盟の初代最高執行委員であり、学部を社会主義の前衛のように使っていたといえる。
と、組織の同盟法でも「効果的に監視する」ことが強調されている。
ただ社会主義同盟は、その秘密主義的性格のため、明文化された行動規定はなかった。その性格が、盗聴から不法逮捕、拷問まで自由自在のカイロ大学支配ルールを生んだといえる。
現代のエジプト史家は同盟について、こう総括している。
ナセルが嘘、欺瞞、誤報を広めるために任命したのが、ハーテム国家指導大臣(情報・文化担当)だった。カイロ大学の権力中枢は、ハーテム氏をはじめ社会主義者同盟とその陸軍事情報部出身者たちによって形成されていった。そしてその権力の序列は学問的成果ではなく、陸軍士官学校の先輩後輩関係によって決まっている。
軍教育の序列という面でも、ハーテム氏はその先例を作った人物である。ハーテム氏は陸軍士官学校で軍事学士号、陸軍参謀大学で戦略学修士号、イギリス留学でも学位を取得したエリートである。現在のシシ大統領の学歴も瓜二つだ。
卒業後は諜報機関で出世することも、権力中枢へのエリートコースである。ハーテム氏自身の出自は1952年のエジプト革命を起こした陸軍諜報部員である。それどころか軍からも省庁からも独立した影の諜報機関「情報総局」の創設者の一人でもある。シシ大統領はもちろん、同局トップまで上り詰めているが、世代的な序列で見ればハーテム氏の孫弟子にあたる。
1960年代、ハーテム氏の情報支配はカイロ大学だけでなく、エジプト全土のあらゆる業界に及んでいた。その影響力は、当時ナセル大統領に勝るとも劣らない人気を誇っていた映画俳優・歌手・作曲家のムハマド・ファウジ(1918年-1966年)の運命にも及んだ。ファウジは、社会主義の名の下に一代で築き上げたエジプト最大の映画・音楽会社を没収され、給仕係に身分を落とされた末に、心の病を患って死に至ったのだ。
これは明らかに、ハーテム氏の自己アピールのためだった。支配下にあるメディアを通じてこの様子を報道させることで、自らの残虐さを歴史から抹消しようとしたのだ。
という評価だ。
*「ムハマド・ファウジ…私文書」
ナセルやハーテムの悪行を告発する同書が発表されたのは、ファウジの死から55年後、ハーテムの死から5年後の2019年。同年開催のカイロ国際ブックフェアで初版が発売される予定の注目の本だったが、発行はフェアの2週間後に延期された。著者は「技術的な理由があった」とのみ語っている。ハーテムがファウジを死に追いやった理由として、ファウジが初代大統領のナギブの親友だったことも挙げられる。ナギブの初代大統領にもかかわらず、30年自宅軟禁にされ、その存在は教科書からも抹殺されていく。ナセルの方はハーテムの小中学校からの幼馴染。
ハーテム氏はなんと日本人を急襲したこともある。標的はエジプト、アラブ世界に空手を普及させた岡本秀樹氏だ。岡本氏の自宅に内務省所管の秘密警察を送り込み、「特別検察」に連行させた。特別検察とは腐敗した国家権力者を捜査対象とするソ連由来の特殊機関である。岡本氏はその総長から直々に取り調べを受け間一髪で拘留は免れたものの、ハーテムの私怨により“容疑”がかけられてしまったことある。
背景はこうだ。岡本氏が進めていてた武道センターの建設プロジェクトについて、「自分(ハーテム)がやるべき」と考えていたところ、岡本氏は別のエジプト人を指名した。それを逆恨みして、ハーテム氏は復讐という暴挙に出たのだ(参考文献『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』2020年)。
カイロ大学の内部者なら誰もが、時の権力者による横暴な大学介入と支配を知っている。そうした構造の中で出世を目指す、したたかな人間は権力者に迎合し、彼らの利益に適うように行動するのが近道だ。そのための効率的な手法が、当局への頻繁な報告、つまり密告である。例えば教授であれば同僚の反政府的な思想を、学生であれば同窓生の反政府デモ計画を密告し、当局に売り渡すのだ。
密告には社会主義同盟仕込みのシンプルな掟が一つだけある。
「情報の収集と報告の原則は、誰についても書くこと。情報はその価値が何かを考えず、何についてでも収集すること」
密告を通じて、個人の思想と良心は完全に剥ぎ取られ、人は権力者の奴隷と化してしまう。
カイロ大学の建学理念と歴史
カイロ大学は、1908年の建学当初、現在のような問題に満ちた大学ではなかった。中東・アフリカ地域で初めて、自由思想と科学に基づく近代大学として誕生したのである。
現在のカイロ大学の公式ホームページにもその理想と創学の経緯が記されている。一部抜粋・要約する。
「大学の自治」は、今は失われてしまったカイロ大学の大きな柱であり、初代学長が提唱・確立したものだった。
大学が公立化となった1925年に就任したルトフィ・サイイド初代学長は「大学人は道徳的人格を養い、独立して自らを統治すべし」をカイロ大学の基本原則して定めた。
同年10月16日に行われた文学部の開校式のスピーチでは「大学の独立性の徹底」を訴えている。その目的は、イスラム世界になかった西洋の人文科学(リベラルアーツ)をエジプトに導入し、自由な思考ができる独立した市民を輩出することだ。サイイド学長はエジプトを代表する知の巨匠として、“世代を超えた教授”という異名を持ち、広く尊敬を集めた人物である。
1908年、私立大学として創学した際の中心人物サード・ザグルールは「大学の宗 は科学である」と宣言した。
エジプトにはイスラム学者・法学者を輩出する宗教系のアズハル大学しかなかった。カイロ大学が創立されるまで、エジプトの大学といえばイスラム教の教えを中心とするアズハル大学のみであり、大学教育そのものがイスラム教と深く結びついていた。しかし、民族主義運動家のザグルールは、イスラム教の教えに固執することでエジプトが西洋列強に後れをとってしまったと考えていた。そのため、近代大学の設立にあたり、科学を宗教より優先する理念を明確に打ち出したのである。
ザグルールに賛同し、1907年から1913年までカイロ大学の初代理事長を務めたフォア―ド1世は世俗大学設立の意義をこう綴っている。
こうして「大学の自治」「科学」「世俗主義」の3本柱がカイロ大学の建学理念となった。
創立と同時に、カイロ大学では西洋的な人文科学の講座が次々と開設された。最初に設立されたのはアラビア語言語文学科だが、同時にアラビア語と関連する東洋諸言語の研究も始まった。これらの言語には、アラビア語と同じセム語族に属するヘブライ語、シリア語、アビシニア語などがあり、また、コーランの言語であるアラビア語と影響し合ったイスラム圏の言語として、ペルシア語、トルコ語、ウルドゥー語などがある。
これらの言語や文学、遺産の探究を通じて、現在につながる中東地域研究を網羅する学問体系が構築されていった。筆者が学んだのはこの直系といえる東洋言語学科であった。アラビア語言語文学科を皮切りに、英・仏・独・ギリシャ語・ラテン語と他国の言語、文化を専門研究する学科が設立されていく。
次いで、文学部内には人文科学の基礎となる歴史学、哲学、心理学、地理学、社会学の専門学科も開設されていった。
1923年に法学部と医学部が設立され、1928年にはファティマ女王が寄贈した土地に現在に続く大規模キャンパスが開設された。その後、1935年に工学部、農学部、商学部が、1938年に獣医学部が立ち上がり、カイロ大学はリベラルアーツと近代科学が学べるアラブ中東地域初の総合大学へと発展を遂げた。
1940年、初代理事長の功績を称え、大学は「フォア―ド1世大学」と改名された。さらに1946年には、国立師範学校が同大学の教育学部として併合され、エジプト全土およびアラブ世界に教師を送り出す基盤が整備された。
ナセルによるカイロ大学支配
しかし、1952年に大転換が起こる。陸軍諜報将校による秘密組織「自由将校団」による軍事クーデターが起きたのだ。これが世界史の教科書にも載っている有名な「ナセル革命」である。
後のエジプト・アラブ共和国の2代大統領として名高いナセル。だが彼こそが、カイロ大学の「大学の自治」「科学」「世俗主義」という建学理念、そこから派生する多様な思想体系を壊した張本人である。
ナセルは革命後の1954年1月、カイロ大学の知識人やエリート学生を支配下に置くため、キャンパスに革命親衛隊「解放団」を送り込んだ。当時、軍事革命への反対派になりえる知的素養のある国民はカイロ大学にしかいなかった。だから、彼らの存在を一刻も早く摘み取りたかったわけだ。
彼は当時こう語っている。
「大学の独立」を堅持しようと教授・学生たちが団結、デモ活動で対抗したが、親衛隊との力の差は歴然だった。さらにナセルは治安部隊も投入し、反ナセル派のカイロ大学人を完全制圧した。数百人を下らない学生や教職員が逮捕されてしまう。
学生たちは、ナセルの戒厳令に対してカイロ大キャンパスに集結し抗議した。学生たちは、ナギブ初代大統領支持を旗印に団結し、大統領の住む宮殿に行進する。より民主的、イスラム的立ち位置とされていたナギブの心情に訴え、裏で実権を握るナセルを追放するためだ。ところが、またしても解放団と治安部隊に阻まれてしまう。それどころか同胞団と共謀したとして、希望の星ナギブが幽閉されてしまう。
その翌月の3月、最後の決戦を迎える。何千人もの反ナセルの学生たちが大学に集結し、権力を独占する「革命指導評議会」の解散を求めた。2日にわたる戦いの末、当局は突如カイロ大学の閉鎖を宣言した。
これが世に言う「カイロ大粛清事件」のはじまりだ。まず、学長、副学長が解任され、ナセル信奉者に挿げ替えられた。反ナセルとみなされた教授陣も全員解雇された。准教授も助教もアシスタントも同じ運命を辿った。事務職員であっても、少しでも体制を批判すれば失職した。
大学の理事会には軍人が送り込まれた。フアード1世や初代学長サイイドが発展の道を切り開いた歴史あるカイロ大理事会は、独裁者ナセル称賛の場に一変した。
大学自治の象徴であった学部長選挙も廃止。代わりに、カイロ大学を管轄する文部大臣にナセルに近い軍人が選任された。その文部大臣が学長を選び、さらに学長が学部長を選ぶ体制に変更された。こうしてカイロ大学は完全には革命指導評議会の管理下に入ってしまった。
粛清があった年の10月、ナセルはスエズ運河に駐留していたイギリス軍を撤退させることに成功する。その際、対英プロパガンダ戦にナセルの側近として活躍したのがハーテム氏である。
カイロ大学人が半世紀もの時間をかけてきた反英闘争において、ナセルとハーテムら陸軍士官学校出身の諜報将校らは一瞬にしてイギリス軍からの独立という結果を残す。
ナセルは、反英闘争において無力だったカイロ大学の看板”西欧的リベラルアーツ教育“の代わりに “国家統一カリキュラム”を導入した。共通目標に向かって、学生の意思統一を図る軍隊式の思想教育だ。
なかでも、ナセルが重要視したのが「アラブの統一」を目標とする民族主義教育である。これがカイロ大の必須科目になる。
1年生は「アラブ社会」、2年生が「7月23日(ナセル)革命」、3年生で「アラブ社会主義」と順を追って学んでいく。
アラブ民族主義が色濃く
ここからカイロ大学は、エジプト人=アラブ人という新たなアイデンティティの普及機関へと変貌した。ただ、教科書さえ存在しなかったので、カイロ大学の教授たちが教科書を執筆した。ナセルに粛清されずに生き残った教授だから、自らの思想信条などあるわけがない。時代に迎合し、ナセル礼賛の教科書を量産していくことになる。
ナセルのアラブ民族主義とは、初代学長サイイドが主導してきたカイロ大学史観の全面否定でもあった。カイロ大学初代学長のサイイドは、エジプト人のルーツを古代エジプトからギリシア・ローマ時代に求める歴史観を持っていた。
一方、ナセル大統領にとって重要だったのは、古代から続くエジプト国民の形成ではなく、アラブ民族の統一という未来の目標だった。ナセルは、過去の栄光への憧れを捨て、アラブ統一の実現のために、新たな歴史観とイデオロギーを形成していったのである。
その歴史観にそって、カイロ大の歴史さえも修正した。先にも書いたように、1940年にカイロ大学は初代理事長の名前を冠した「フォアード1世大学」という名称になっていた。しかしナセル革命により、アラブ系ではない王室の歴史を抹殺するため、フォアードの名は取り除かれてしまったのである。
革命10周年記念日、ナセルはカイロ大学を電撃訪問し大講堂で演説を行っている。大学教育の無償化を掲げ、「特権ではなく、国民の権利として保証する」と宣言した。
聞こえはいいが、これは事実上カイロ大学の国有化宣言であり、さらなる国家統制への狼煙だった。
まず、社会主義の思想教育の徹底である。他の思想に傾倒していないかを監視するために「ナセル社会主義青年会」を立ち上げた。同会は前述した社会主義同盟の青年部である。
ナセル政権は学生会を禁止し、代わりに国家予算が割り当てられた社会主義青年会が学生活動を独占するようになった。かつては多様な思想が形成されていたカイロ大学は、アラブという一つの「超越国家」に従属する学生を生産する組織へと変容していった。
1961年、大学教育を管轄する高等教育省が新設され、従来の教育省から独立した。しかし、予算のほとんどが学費に充てられたため、教職員の給与と研究費は激減し、意欲ある研究者は海外に流出していった。無償化により進学率は上がったものの、教育の質は低下の一途をたどった。
この頃、後のイラク大統領となるサダム・フセインもカイロ大学に留学していた。ある伝記作家は、当時のカイロ大学をこのように総括している。
学生会を禁止し、代わりに青年会に国家予算がつけられ学生活動を独占することになる。思想形成とその競争の場であったカイロ大学は、アラブという一つの「超越国家」建設目標に従属する学生を生産する組織に変容する。
1961年、高等教育省も新たに設置された。従来の教育省から独立して、大学教育を管轄する省だ。予算はほとんど学費に充てられ、教職員の給与と研究費は激減。意欲ある研究者は海外に流出した。無償化によって進学率はあがったが、教育の質は低下の一途をたどった。
元イラク大統領サダム・フセインが留学するのもこの頃である。伝記作家は当時のカイロ大をこう総括する。
1968年、カイロ大学生はようやく反撃に出る。ナセルのアラブ民族主義・社会主義教育の強制中止を求める学生デモ運動を巻き起こしたのだ。ナセル配下で禁止されていたエジプト主義、イスラム主義系などそれぞれの思想系の学生組織が活動を再開した。
当局は学生運動抑え込みにかかるが、当時、ナセルの権威は既に弱体化の一途をたどっていった。度重なるイスラエルとの戦争や、他のアラブ諸国への拡張政策で国家経済は疲弊し、社会主義教育と政策の影響で国民の活力も衰弱していた。思想は「アラブ統一」と教育しても、現実はエジプト軍国主義による領土拡大策にすぎない。徴兵制などで、国家総動員体制のコマとなった学生たちにとって、将来をかける夢にはなりえなかった。
一方、他のアラブ諸国の権力者にとって、ナセルは脅威だった。アラブ民族主義は欧米列強に代わる新たな植民地主義に過ぎないと映っていた。
結局、ナセルは志半ばで1970年急死することになる。後継者のサダトは第4次中東戦争後、イスラエルとの和平を進めていった。経済面では社会主義政策から180度路線変更し、「門戸開放政策」を採用する。サダトは、ナセルのアラブ社会主義で疲弊した国家を、エジプト第一主義「エジプト・ファースト」の国への転換を図った。
サダト・ムバラク時代の学生運動
そんな権力の変遷のもと、カイロ大学は1975年、サダトによって20数年ぶりに言論の自由を獲得。学生会にも公式に政治的発言権が与えられた。翌年にはカイロ大学を含む全国立大学の学生会が組織する「全国学生同盟」の結成が解禁された。
ムスリム同胞団系の学生会が選挙で勝利すると共に、カイロ大学学生会リーダーが全国の学生のトップに立った。
当時を振り返って、アルカイーダ指導者ザワヒリ(1951-2022)がこう記す。
勢いを増した学生同盟は1979年、「イスラエルとの国交正常化反対書」を大統領に提出した。サダト大統領は、自身の肝いりの政策を批判されたことに憤慨し、同年、学生同盟の解散を命じるとともに「学生活動規制法」を制定して、学生の政治活動を制限していった。
しかし皮肉なことに、翌年1980年 、サダトは就任時に自らが解き放ったイスラム主義者によって暗殺されてしまった。後継したホスニ・ムバラク大統領は、学生運動の取り締まりをさらに強化していった。
1984年、カイロ大学学生会は学生活動規制法の緩和を求めてデモを繰り広げたが、弾圧はますます厳しさを増していった。1991年の湾岸戦争を機に学生デモが頻発すると、カイロ大学学生会はパレスチナ問題で反イスラエル派のイラクのフセイン大統領を支持し、エジプト軍の多国籍軍への派遣に反対を表明した。面子を潰されたムバラク大統領は治安部隊を投入し、5名のカイロ大学生が命を落とした。
カイロ大学学生会は1984年、学生活動規制法の緩和要求デモを繰り広げるが、弾圧はますます厳しくなっていった。
デモを鎮圧した後ムバラクは、イスラム主義者が多数派を占めるカイロ大学学生会に対抗する組織を立ち上げた。それが、国民民主党がバックアップする学生組織「ホルス」だ。ホルスはエジプト神話の太陽神で、カイロ大学のエンブレムになっている神「トト」の兄にあたる。
筆者がカイロ大学に入学した1993年は、ちょうど学生運動が盛り上がりを見せていた時期だった。当時を振り返りたい。
大学当局が反政府的な学生への懲戒処分を強化したことに対し、学生たちは反対運動を起こしていたのだ。しかし、デモが過激化すると、装甲車がキャンパス内に入ってきて、運動の首謀者とされる学生たちが次々と逮捕されていった。
学生運動の活動拠点と目された学生寮も監視の対象となっていた。当時の寮には、ソ連に対抗するためにムジャヒディーン(義勇兵)としてアフガニスタンに渡り、凱旋帰国した学生が多数いた。カカイロ大学は当初、彼らを英雄として迎え入れていたが、時が経つにつれ、彼らへの風当たりは強まっていった。しかし、時がたつにつれ、警戒監視対象になっていた。ソ連をアフガニスタンから撤退させた勢いで、今度はエジプト政府の転覆を企んでいるのではないかという噂が広がったのだ。
結局、そうした疑惑は立証されなかったものの、反政府デモへの参加を理由に600人もの寮生が大学から追放された。逮捕され、命を落とした学生の数は、闇に葬り去られてしまった。
1994年、パレスチナのヘブロンで起きた事件が、カイロ大学に新たな波紋を呼んだ。モスクで礼拝中のパレスチナ人に対し、極右系ユダヤ人が銃を乱射したのだ。この「ヘブロンの虐殺」に抗議すべく、カイロ大学の正門前では大規模な反イスラエル・デモが行われた。筆者もそこに参加した。
その11年後の2005年、同じカイロ大学の正門前で、また一つのデモが行われた。そこでは「キファーヤ(もうたくさん!)」というスローガンが叫ばれ、ムバラク大統領の退陣が求められた。参加者は実に多様で、世俗派からイスラム主義者、リベラル派から共産主義者まで、あらゆる立場の人々が集まっていた。イデオロギーの垣根を越えて、カイロ大学生が一丸となって立ち上がったのである。
この「キファーヤ運動」は、ムバラク退陣だけでなく、「国家による学生・市民への暴力の恒常化」に反対し、「政治的自由と民主的な社会制度」を求めるものでもあった。これは現代エジプトの政治運動の中で快挙といえる動きだ。ここから、従来の世俗主義かイスラム主義かの二者択一の思想闘争ではなく、自らエジプトを改革していこうという民主的な運動の時代が幕を開けたからだ。
組織のあり方にも、いくつかの新機軸があった。まず、特定の個人を指導者に据えるのではなく、多様な思想的背景を持つ人々が集える「プラットフォーム」としての役割を重視した。さらに特筆すべきは、2000年代半ばという早い段階からインターネットを活用し、ブログや掲示板、ツイッター、フェイスブックといったツールを通じて、活動への参加を呼びかけたことだ。
このキファーヤ運動を陰で支えていたのが、ハムディーン・サバーヒ(1954~、1978年マスコミ学部卒)という人物である。カイロ大学在学中の1977年には学生会会長として、サダト大統領とテレビ公開討論を行っている。パレスチナ問題をめぐる政策論争で大統領を論破し、一躍全国区の知名度を得たのだ。そのテレビ討論の発端は、サバーヒが主導した大規模な学生運動にあった。
自ら編集長を務める学内雑誌『アルトゥッラーブ』で政府の腐敗を告発し、学生を抗議運動に動員したことで、サダト大統領は危機感を募らせ、学生との直接対話に応じざるを得なくなったのである。
その後、サバーヒは全国の国立大学の学生会会長による選挙で勝利を収め、エジプト全土の学生運動をまとめあげる。そのとき、イスラム主義者からアラブ民族主義者、リベラル派から共産主義者に及ぶエジプトの学生会をまとめあげた。キファーヤ運動における求心力も、こうした学生時代の経験によって培われたものだろう。
キファーヤ運動による一連のデモが行われたその年、カイロ大学の教授たちも立ち上がった。「大学の自由」を求める集会を開いたのだ。そもそもナセルによるカイロ大学粛清以来、大学運営のあらゆる側面に政府の介入が及んでいた。
教員人事から学生選挙の候補者、カリキュラム内容、学術会議のゲストスピーカーに至るまで、事細かな統制が敷かれているのだ。学長人事は大統領の専権事項であり、実質的には軍事情報部の意向で決まる。トップがそうでは、現場の教員が積極的な提案をするのも憚られる。かといって、大学の実権を握る軍や治安部隊に刃向かえば、解雇や退学はもちろん、理不尽な逮捕や拷問すら待っているのだ。
そんな絶望的な状況下で、ナセルの粛清から50年たった、教授たちは声を上げる決意をした。しかし、ただデモを行うだけでは、鎮圧されて終わってしまう。そこで教授たちは、「キャンパス内での秘密警察・治安部隊の常駐」の違憲性を争う裁判を起こしたのだ。
この「3月9日運動」と名付けられた取り組みはカイロ大学初代学長サイイドの行動に範を求めるものだった。1932年3月9日、サイイドは政府による大学自治への介入に抗議し、学長を辞任している。「学問の自由」を脅かすような、コーラン解釈をめぐる教授への処分に、毅然と反対したのだ。
5年に及ぶ裁判の末、2011年に教授陣は全面勝訴を勝ち取る。裁判所は秘密警察・治安部隊の常駐は違憲であり、大学の自治を定めた憲法規定に反すると断じた。
そして、その数カ月後、ついに「エジプト革命」が勃発する。ムバラク大統領は退陣に追い込まれ、革命直後のキャンパスからは警察の姿が消えた。大学に活気が戻り、教員は自由に講義を行い、テキストを選び、セミナーやシンポジウムを開けるようになったのである。
2011年革命後の自由と弾圧
革命の年、カイロ大学伝統の学生会選挙も透明性が担保された形で行われ、久しぶりに盛り上がった。十分な選挙活動期間が確保され、開票も公開された。これが以前は反政府的な学生の認知度が上がらないような工作がなされていた。たとえ
以前は反政府的な学生に認知度があがらないよう、選挙日直前に告示したり、たとえ立候補しても書類審査で落とす、それでも通ったら選挙自体を無効にするなど当局による工作が行われていた。
そんな形骸化した学生会に抗議して、2006年には学生達が「自由な学生会選挙運動」を組織し、政府や大学当局の許可を得ない自由選挙を開催したこともあった。しかし大学が選挙結果を認めなかったため、学生会予算が得られず実質的な活動ができないまま学生達の支持を失った。そんな経緯もあった。
革命後の学生会選挙では2年連続でムスリム同胞団系の学生たちが勝利した。しかし、自由の喜びはつかの間だった。2013年、エジプト軍最高評議会議長のシシは、ムルシー大統領の身柄を拘束してクーデターを起こし、ナセル時代の軍事独裁に逆戻りさせた。そして、カイロ大学内に治安管理委員会を設置させるに至る。
シシは法的な整合性を整えた上で、カイロ大学教授陣グループ「3月9日運動」が学内から追い出したばかりの治安部隊を、わずか3年後に再び送り込んだのである。
ムバラク時代の学生鎮圧では、催涙弾やプラスチック弾による制圧が常とう手段だったが、シシ時代はその規模が桁違いだった。殺傷性の高い鉛弾やランチャーが用いられ、大学内部には覆面の特殊部隊が送り込まれた。さらには、ショック死させるために電気棒やショットガンまでもが使われた。
学生はローテクの火炎瓶で応戦したが、到底かなうはずもなかった。カイロ大学をはじめとして、逮捕された学生数は全国で約2000人、死亡した学生数は200人近くに及ぶ大惨事となったのである。
治安部隊による学生運動制圧後の2014年9月28日、シシ大統領自らがカイロ大学大講堂で演説にやってきた。大講堂での大統領演説には歴史的に特別な意味がある。その演説内容が歴代大統領における大学方針を実質的に決定してきたからだ。シシ演説はこう始まった。
さんざん学生を弾圧しておきながら「愛している」などと言うのは笑止千万だが、シシ本人は学生に復讐されることを恐れていた。シシは、演説の直前に軍用ヘリコプターでカイロ大入り、演説前の二日間は休校にして大学中のセキュリティチェックを済ませるほどの念の入れようだった。
演説の要旨は次の3点である。
これはカイロ大学粛清時のナセル演説に酷似する。
①はナセルの「大学とは国家社会の発展を守り、その進路を切り開く前進基地である」宣言と同じ。
②③は自由な学生会の代わりに設置した監視組織「社会主義青年会」の発想だ。
演説が行われた9月28日はまさにナセルの命日だった。シシは毎年この日に式典を開催すると発表し、演説を締めくくった。“カリスマ”指導者であったナセルの後継者としての自分を位置づけるためだ。
シシ大統領によるカイロ大学支配
演説の直後、シシ大統領は以前の記事「カイロ大学声明の本質」でも触れたセキュリティ企業「ファルコン」をカイロ大学に送り込んだ。
セキュリティ対策を民間企業に委託していることについては、2010年の裁判で「カイロ大学キャンパスにおける秘密警察・治安部隊常駐は違憲」との判決が出ていたためだ。しかし、実態は天下り企業への発注による利権の温存に他ならない。
大学の各門には金属探知機が設置され、持ち物検査とボディーチェックが始まった。政権は学長・学部長だけでなく、教職員も任意で解雇できる新制度を施行した。違憲判決に従って設置されたキャンパス外の治安部隊駐屯所の人員は大幅に拡充された。
ここから、シシ版の「カイロ大学粛清」のはじまりである。
学生たちの士気は急降下し、2015年の学生会選挙の投票率は5割から1割以下に急減、立候補者数も史上最低を記録した。軍部や内務省から教育省への天下りも急増した。学生選挙の立候補者にはシシ大統領派が大量に送り込まれた。
しかし、選挙結果は工作の甲斐なく、定数14のうち「親大統領派」はわずか2議席しか獲得できなかった。残る12議席は「無所属」が獲得し、その主力は立憲主義派やリベラル派だった。カイロ大学建学の精神は健在だったのだ。
とはいえ、大学側の権威主義体制はその後も変わらない。2017年10月、シシ大統領は新学長を文学部教授ムハンマド・オスマン・フシュト博士に任命した。イスラムと西洋哲学の関係を研究してきた彼は、シシの新宗教政策「科学的で進歩的なイスラムの構築」に迎合する御用学者である。シシの方針に呼応して、オスマン博士はインタビューでこう答える。
しかし、カイロ大生や教職員が望んでいるのはイスラム科学の過去の栄光について、説教を受けることではない。彼らが求めているのは、大統領の専制や学長の権威主義から自由な、真の大学自治なのだ。しかし、フシュト氏の関心はそこにはない。彼の忠誠は、ひたすらシシ大統領と軍部に向けられているのである。
カイロ大学学長、シナイ解放記念日に最高指導者と軍隊を祝福
カイロ大学のフシュト学長は、大学評議会・教職員・学生を代表し、国軍最高司令官シシ大統領、国防・軍事生産大臣ザキ将軍、参謀総長のオサマ・アスカル中将、そして国軍の指導者、兵士に対し、シナイ半島解放42周年と祖国復帰を祝った。
フシュト博士は、10月6日(訳注:第4次中東戦争)の壮大な勝利とシナイ半島解放のためにエジプトが全戦線で戦った長い戦いと闘いの後、エジプトが国土を回復した記念日に、軍最高評議会のメンバー、司令官、将校、下士官、兵士、そしてエジプト国民に心からの祝辞を述べ、エジプトとその国民、そして軍隊を守ってくださるよう神に祈った。
この機会に、カイロ大学学長は、シナイ半島をテロから解放し、支配を拡大した軍隊の役割、ならびにシナイ半島の包括的発展におけるエジプト軍最高司令官シシ大統領の偉大な尽力を賞賛した。(アハラーム紙2024年4月22日)
大統領を称賛した1カ月前、フシュト学長は懲役6カ月の判決を受けている。罪状は「大学教職員への給与未払いとその資金凍結」だ(「ベルマスリー」2024年3月4日)。これはメディア学部ナダ教授が大学資金の横領を告発したことに基づく。しかし学長は無罪放免になり。ナダ氏は拘束された。
一見すると大学関係者同士の抗争に見えるが、その背後では大学支配をめぐる諜報戦が展開されていた(「カイロ大学紛争:諜報戦ラウンドへ」アフバール紙2021年9月30日)。
学長は情報総局長アッバス・カメル将軍の代理人であり、ナダ教授の背後には大統領府の側近がついたという。他方、治安部隊を所管する国家安全保障局情報員が学長の金庫を開け、ナダ氏に告発のもとになる機密資料を渡したという情報もある。
最終的に、大統領府長官アブドゥル・ナビ少将が関与した職員を一斉解雇することで、抗争は終結を迎えた。フシュト学長はシシ大統領への賛美の記事を捧げた後、大学公式ユーチューブ番組に奇妙な動画をアップした。学生や教職員70人以上に、ただ自身の誕生日へのお祝いメッセージを言わせた内容だ。
フシュト学長は、情報総局側に付いて反大統領派を抑え込んだ功績から、自身の権力基盤が安定したと感じているのだろう。その後も、独裁者然とした態度で動画を次々と投稿している。
フシュト学長は小池氏の学歴詐称疑惑に関連して、2018年に文藝春秋への抗議文を送り、2020年にはカイロ大学声明文を発表した人物だ。
小池氏の軍事機密“学生ファイル”が公開される気運はない。
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