Dとは何か?柄谷行人の交換様式において。


柄谷行人が7月3日に東京大学で行った講演について論じたい。講義のテーマは要約すれば、交換様式においてD=Xとは何なのかと言ってよかろう。
柄谷行人が出したヒントは以下の3点だった。
1.Dは交換ではない。
2.交換が物神を産む。
3.世界はもっと酷い事になる。
しかし、Dの定義については、柄谷は口を濁す。
講演の後に見つけた下記のサイトに、柄谷の活舌の悪い講演より、分かりやすく交換様式が説明してある。
http://www.kojinkaratani.com/jp/pdf/20171207_jp.pdf

この文章に興味を持つのは柄谷ファンと想定できるので、詳細は割愛する。
1.Dは交換ではない。
ずっと交換様式の定義を追ってきた読者には、Dは A,B,Cを超える交換、何か資本主義を揚棄するものを想定していただろう。Dは交換ではない、それどころかDはその否定になると柄谷行人は言う(私の理解が正しければ)。
交換してはならない。

2.交換が物神を産む。
なぜ交換を否定しなけてばならないのか?
交換が物神を産からである。
交換の起源において、物々交換がそもそもの始まりと考えがちだが、そうではない。物Aと物Bをイコールで結びつける価値観、経験、空間時間がなければA=Bにはならない。柄谷はそれを信用と呼ぶ。貨幣=信用が時空間な交換を可能にする。ただの貨幣=紙が多様なものと交換可能になる時、物神(フェティシズム)は完成する。
物神はどこから来るのか?我々は日常において交換(もの、言葉)している。そこでは常に何かと何かを=で結びつける。交換行動がは始まる以前、言葉の取得と共に現れた能力かもしれない。この能力なしに我々は文明、社会、法を作ることはないだろう。
精神科医の木村 敏はその著書「異常の構造」で ヨハン・ゴットリープ・フィヒテの高名な定義を引いて、スキゾ患者についてこう述べてる。
我々にとって、かれらは「むこうの世界」に行ってしまった人たちである。しかし逆に言えば、「1=1」の世界に安住して、それを唯一無二だと信じて疑わないのが我々だ、とも言える。その偏狭さと傲慢さを自覚することは、決して無駄なことではない。
貨幣は交換「1=1」を容易にする。が、我々はもっと不思議な事もする。お守りを神社でもらったりする。合理的にはただのもの=紙であるお守りになんの効力も無いことは理知的な判断でわかるが、ただの紙であるお守りを粗末に扱う人は少ない。そのもの=お守りがそれ以上の価値をもたらすとき物神になる。われわれはこれを否定できない、否定しまうと気が狂い、スキゾ患者になってしまう。

3.世界はもっと酷い事になる。
柄谷はDは向こうからやってくる、と言う。だから準備しても無駄である。しかしそれを馬鹿にはしないが、無駄な努力になっても絶望してはならない。
以前、柄谷は思考というのは極端な所から始めなければ時間に耐えられる思考にはならないと書いた。戦争、恐慌、病気。そこから始めなければ意味がない。
Dは極端な状態であり、交換が通用しない場所である。
災害がDであり、Dになる。その時我々に試練を与える神になる。

災害ユートピア/レベッカ・ソルニットが発見したように、災害=Dに翻弄されたときのみ人間は本気で思考し、行動し、ユートピアは儚くも現れる。

<引用>
互酬交換の起源を説明できると思います。それは「死の欲動」を導入した後期フロイトの理論です。死の欲動とは、有機体(生命)が無機質に戻ろうとする欲動です。《生命実体を保存しこれを次第に大きな単位へ統合しようとする欲動のほかに、それと対立して、これらの単位を溶解させ、原初の無機的状態に連れ戻そうと努めるもう一つの別の欲動が存在するにちがいない》(『文化の中の居心地悪さ』、フロイト全集 20、岩波書店、p30)。私は、これは個人よりもむしろ社会構成体に関してあてはまることだと思います。人類は遊動的であったとき、「無機的状態」にあった。定住後に生じたのが、「有機的状態」です。そこに、不平等や葛藤が発生する。そのとき、「無機的状態」を取り戻そうとするのが死の欲動であり、それは先ず攻撃性として外に向けられる。

Dは「死の欲動」とも取れる。定住=文明化した人類は交換の虜になってるが、それら解き放たれたる瞬間がある、それは大きな災害が向こうから来る時である。
Dは何もかも奪い取る。その時一瞬だが人類は「無機的状態」なり、神の恩恵を受ける。

<ヨブ記>
主は何もかも奪い去る、善人からも悪人からも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?