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久しぶりに映画を観た、家で。

「泣きたい私は猫をかぶる」
現在Netflixで観れる映画の一つ。
この映画を見ているときに思ったことを綴る。
ネタバレなどはない、ただ映画のワンシーンを観て、ふと考えて、そこから派生した僕の記憶の話である。

この映画でこんなシーンがあった。
中学生の男の子が屋根の上から落ちてきた(飛んできた?)猫を受け止めて、その反動で後ろに倒れ、猫と一緒に茂みの中に突っ込む。斜面になっていたので、そのまま下へゴロゴロと茂みの中を転がる。下り切ると茂みから出て男の子はぶはーと息を吐く。

ぼくはそのシーンを観て、
「こんな体験実際にしたら絶対記憶に残るだろうな〜」
「ぼくもこんな体験してきたかな〜」

その思いは物体となり、頭の中でお休みしていた小さなかけらを起こしにいくと、かけらたちは起き上がり磁石に吸い付くように集まって、無地の壁にペタペタ張り付いた。かけらたちは自分の体にそれぞれの模様を持っていたので、無地の壁はどんどんと色づき、やがて壁はある情景を映した風景画のようになった。ただし寝坊助や無闇につっこんだかけらたちもいて、その風景画はどこか違和感もあった。完成まで8割くらいだろうか、その時風景は動き出し、その中から声も聞こえ出した。
どうやらぼくが5、6歳頃の記憶が再生されるようだ。

実家の隣にはミゾがあり、そこにはチョロチョロと水が流れている。幅は1メートルもない。
ぼくと4つ上の姉とその友達は、少し薄暗くなってきた春の日の夕方、そのあたりで遊んでいた。もうそろそろ帰ろうかなーと思っていたが、姉と友達は会話が盛り上がりなかなか終わりそうになかった。ぼくは手持ち無沙汰になり、近くにあったミゾの間を跳び越えて遊ぶことにした。特に緊張するものでもなく、跳び越えるたびにリズムに乗って楽しくなった。いつの間にかぼくはどこかで覚えた歌を口ずさんでいた。
「どんどばしおちたーおちたーおちた、どんどばしおちた、どーおしましょうー」
これを繰り返し歌いながら、ひたすらミゾを飛び越えた。何度目か分からないが、遂に、と言ってもいいだろう、ぼくは足を踏み外しスネをすりむきながらミゾに落ちた。めちゃくちゃ痛かった。ミゾに溜まっている水くらい涙を流したと思う。

そこで暗くなったかと思うと、壁に張り付いていたかけらたちは文字通り色を失い、眠そうにあくびをしながら三々五々自分の寝どころへと帰った。ぼくは「さっきまで何年も寝てただろ!」と思ったが、それは主観的な考えともいえるなと思い直し、記憶を再び手放すと場面は現在に切り替わった。

その記憶からだいぶ後になって知ったのだが、ぼくが歌っていた歌詞は間違っていて、正しくは「ロンドン橋おちた」であった。
あの時負ったモンスターエナジーのマークのような傷は今ではもうないし痛くもない。あの時間違えていることも知らずに歌った歌詞を今から声に出して歌おうということもない。そして、今でもあのミゾの幅は変わっていないだろうが、ぼくの体は当時と全く変わってしまったため、今ではあのミゾの方が変わってしまったと思うかもしれない。
ただ、当時から15年ほど経ってこんな体験を思い出すこともあるんだーと思う。体験は形に残らないが、体の中のどこかには残っているということか。その体験がこれから直面する課題を解決する手助けをするかもしれないし、今回のように懐かしい思い出として蘇るかもしれない。
こう考えると、ただその時その時を自分なりに過ごすことは悪くないのかなとも思う。あの時あれほど痛かくて泣いた苦しい経験も、今ではミゾとモンスターマーク、そして自分の歌う歌が頭の中を流れて、ぼくに懐かしさを残すのである。当時のぼくは歌詞を間違えていると露知らず懸命に歌いながらリズムよく跳んでいるのだ。

泣きたい私は猫をかぶる、
それでも私は生きていく。





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