006『お気餅』ショートショート(2026文字)

 妻のいないマイホームはやけに広く感じられて、何かで埋めていないと寒くて不安で仕方がなかった。妻の部屋から遺品を持ち出しては、廊下やリビング、キッチン、洗面所、至る所に置いた。空間は狭くなっても、心の隙間はちっとも埋まらなかった。
 だからだろうか。こんな怪しげな人間を家に上げてしまっている。
「できました。こちらが奥様の残されたお気持ちです」
「はぁ。でも、これ……餅、ですよね」
 リビングで向かい合って座っている男は、喪服のような真っ黒なスーツに、サングラス、黒い革手袋までして、怪しいことこの上ない。彼はテーブルの上に置かれた白いかたまりを差し出しながら言った。
「ええ。餅です。この家に残っていた奥様の思念、いわゆる残留思念ですな。強いお気持ちです。それを、こうして触れられる形にしました」
 普段なら、鼻で笑える冗談だ。けど、男が飛び込みで営業をかけてきたときに言っていたセリフ――
『奥様が残された想い、知りたくはありませんか?』
 これが、どうしても聞きたかった。
 でも出されたのが餅だ。
「どうぞ、お召し上がりください」
「なんだって?」
「そうすれば、奥様の想いがご主人の心に伝わるはずです」
「はぁ……」
 気のない返事をして、目の前の餅に視線を移す。全部で五個もあって、右側から大きい順に並んでいる。
「どうして大きさが違うんです?」
「餅に込められている想いの違いですな」
「なる、ほど……」
 つまり、大きいものほど想いが大きい、ということか。
 なら、まずはそれを知ってあげなければなるまい。
 僕は両手で一番大きな餅を持ち、ほのかに温かくて柔らかいそれにかぶりついた。
 その瞬間、脳裏に妻の姿が浮かび上がる。噛むごとにその像はくっきりと網膜に焼き付いて、まるで目の前に妻が姿を現したようだった。それだけでなく、声まで聞こえる。妻は言った。
「戸棚の右側の奥にヘソクリがあります。もしものときは使ってね」
 ガクッと体が傾いた。なんだそりゃ。それが一番の心残りだったの?
 確認に行くと、戸棚にはたしかに封筒があった。男の言うことが本当だと証明された。僕は気を取り直して、二番目に大きい餅を食べた。再び妻が現れて言う。
「PCの中身は、何も見ないでハードディスクを破壊してください……」
 モジモジしながら消えていった。おいおい……。
 三つ目、四つ目の餅も食べるが、似たような他愛無い内容だった。
 僕は何を期待していたんだろう。
 愛のメッセージでも聞きたかったんだろうか。
 でも人間、今際の際は、わりと妻みたいなことを考えて死んでいくのかもしれないな。僕もハードディスクは破壊したい。
「おや、どうされました?」
「もうお腹いっぱいで。これは後で食べることにします」
 一番小さな餅を残す僕に、男は「さようですか」と微笑んだ。
「奥様のお気持ちが込められた餅です。冷凍すれば何年でも保ちましょう。好きなときに召し上がってください」
「そうなんだ。ありがとう」
 男はたいした料金も受け取らずに帰っていく。
 怪しさ満点だが、サービスは本物だし、良心的だったなぁ。

 それから何十年も経った後、年末の大掃除をしていたら、冷凍庫から餅を見つけた。忘れていたわけではないのだけど、いつの間にか頭の片隅に追いやられて――いや、まあ、忘れていた。
 子供もいなかった僕たちには当然孫もいない。再婚もしなかったから、老人になった僕は一人で正月を迎えた。せっかくだから、餅を食べてみることにした。
 食べられるのかちょっと不安だったが、あの男の言葉通り、カビもなくキレイに残っている。解凍すると、まるで搗き立てのように柔らかく、ほのかな甘い香りがした。それを、少しずつ千切って食べる。
「やっと食べてくれた」
 目の前に若かりし頃の妻が現れて、ニコニコ笑いながら言った。
「あなたが最初に大きいのを食べるのは分かってました。こっちが本命です」
 食べる順番や時期まで見透かされていたとは。
「体は大丈夫ですか? 体調、崩してたりしませんか?」
 うん。お陰様で元気そのものさ。
「ゆっくり噛んで食べてくださいね。喉につまらせたら大変ですもの」
 分かってるよ。だからこうして小さく小さく千切って食べているのさ。 
「早々といなくなってしまって、ごめんなさい」
 謝ることはない。
「今も一人かしら。他に、いい人はいた?」
 君以外に誰が考えられるっていうのさ。一人は一人で気楽だったよ。
「ずっと待ってますから、急がずゆっくり、来てくださいね」
 それは悩みどころだ。まあ、健康だけが取り柄みたいなものだし、もう少しかかるかな。
 ……餅が少なくなってきた。もともと小さかったし、千切って食べていても、あっという間になくなってしまう。
 もう、最後の一口だ。
「あなた」
 うん。
「幸せでした」
 うん。
「ありがとう。愛しています」
「僕もだ。ずっと愛してる」
 ……。
 餅がなくなった。
 けれど胸の奥にじんわりと、温かいものが残っている。

 了


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