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004『空をみがく虹』ショートショート(2704文字)

「あいつマジでうざいよね。死んでほしいわガチで」
 帰り際、校舎の昇降口でそんな言葉を聞いた。
 自分に向けられているわけではないのにドキッとする。声の出所に視線を向けると、C組の下駄箱のところで数人の男女がたむろして、人目もはばからず、誰かの悪口で会話に花を咲かせていた。口汚い言葉で咲いた花は、きっとドス黒い色をしているにちがいない。
 つい足を止めてまじまじ見てしまった私は、グループの中のひとりと目があってしまう。その女子生徒がキッと睨みつけてきたので、逃げるように外へ出た。

   ***

 学校を出た私は、通学路の途中にある坂道で自転車を止める。家は高台の上の住宅地にあるので毎日ここを通らないといけない。けれどここからは街全体がよく見渡せるので、登下校の時間はわりと好きだった。
「はぁ……」
 けれど今日は、先程のできごとが胸に引っかかって、少し憂鬱だった。
 カバンから双眼鏡を取り出して、太陽を見ないように気をつけながら、レンズを空へ向ける。
「うわぁ……いっぱいあるなぁ」
 空には、黒い雲のような、煙のような、もやもやしたものがたくさん浮かんでいた。細かい黒い塵が集まってできているようなのだけど、その塵をさらに注意深く観察すると、塵ひとつひとつが様々な形をしているのがわかる。
 雲は細かい氷の粒や結晶からできているけれど、その黒いもやもや達を構成しているのは、「文字」だった。
 まるで3Dプリンターで出力したような、立体的な文字。それらは組み合わさって意味のある単語になっていて、そのどれもが、見ているだけで気分が悪くなるような悪口ばかりだった。バカとかアホとか、小学生のような語彙力ならまだかわいい方で、もっと酷い言葉はいくらでもある。
 あれらは、いわゆる言霊のようなものなのかもしれない。私はそう思っている。私たち人間が発した悪口は、誰かの心を傷つけた後、最終的にはああやって空に昇って、空を汚しているのだと。
 だから私は極力悪口を言いたくないし、聞くのもイヤだった。
 どうしてあんなものが見えるのかは分からない。家族や友達に言っても、誰も見えていないようだった。私のほかに、あの黒いもやもやが見える人には会ったことがない。
 私がおかしいのだろうか。心の病気か何かで、私の幻覚でしかないんだろうか。でも、あの悪口のカタマリは、増え続けるときっとよくないことが起こる。そういう確信めいた焦りだけはあった。
 けれども、あの汚れみたいなものは、ある時急に消えてしまうこともあった。それはもうきれいさっぱりと。
 そのたびに私は「ああ、やっぱり幻覚だったんだ」と安堵しながらも、それはそれで自分の異常性を突きつけられるようで不安にもなる。いったいどうして、私にしか見えないのだろう。
 そのとき、頬に雫が落ちてきた。雨だ、と思った瞬間には、けっこうな勢いで降り始めてきた。
 でも不思議だ。
 空はこんなにも晴れているのに。

   ***

 突然の天気雨を避けて、坂道の途中にあるバス停に避難する。ここには屋根があるのだ。自転車を止めて、ベンチに座って雨が止むのを待つ。
 手持無沙汰になって、なんとなしに再び双眼鏡を覗き込んだ。雨の中、悪口のカタマリはどうしているのだろう。
 ひょっとして、この雨で流されて地上に落ちてくるんじゃないか、という気がしたが、そうはならなかった。まるで雨などお構いなしに、黒いカタマリはそのまま浮かび続けている。
「どうせなら、落ちて来ればいいのに」
 もともと、あれらを吐き出したのは人間だ。中には私が言ってしまった悪口も含まれているだろう。どんなに言わないように気を付けていても、つい口にしてしまうこともある。誰かに聞かせるわけでもなく、独り言のように呟いてしまうこともある。ハッと気づいたときにはもう遅く、地面に吐き出した唾を飲み込むことができないように、声に出した悪口はもう戻すことができない。
 ならいっそ、雨と一緒に地上に落ちて来ればいいのに。雨となって人間にふりかかって、その身にしみ込んでいけばいいのに。
 そう思うと、私は雨宿りしているのがなんだかズルいような気がして、制服が濡れるのもお構いなしに、バス停から出て全身で雨を浴び始めた。両手を広げ、自分が言ってしまった悪口を取り戻すかのように。少しの贖罪の気持ちを込めて。
「……あ」
 街をまたぐようにして、大きな虹がかかっているのに気が付いた。こんなに大きな、そしてハッキリと輝く虹を見るのは初めてだった。
 雨を浴びながらじっと虹を見ていると、何か、妙なものがいるのに気がついた。
 バス停のベンチに置いていた双眼鏡を掴んで戻り、虹へレンズを向ける。
 見えたものに、私はあんぐりと口を開けてしまった。
 虹の上に、たくさんの人影が見える。
 虹を足場のようにして立ち、たくさんの人? が、手に棒状のものを持って、それを空に向かって振りかざしている。
 じーーーっと観察していると、彼らが手にしているのはなんとモップだった。それをあの悪口のカタマリに当てて、ゴシゴシと磨き上げている。そうすると、黒いもやもやが少しずつ小さくなって、最後にはきれいさっぱり、消えてしまった。
「まさか……」
 虹の上の人々はそうやって、一生懸命、悪口のカタマリを磨いて消していく。みんな白っぽい服を着ていて、統一感のある動きと相まって、まるでミュージカルのダンスシーンみたいだ。リズミカルに体を揺らしながら働く様子は、なんだか楽しそうにも見えてくる。
 彼らが何者なのか、私には見当もつかない。神様なのか、天使なのか、妖精なのか、はたまた妖怪なのか、宇宙人なのか、でもやっぱり人間なのか。
 いったい何なのか分からないけれども、私たち地上の人間が吐き出した悪口で汚れた空を、彼らがキレイにしてくれていることだけは分かった。
「あ……」
 私は、内から来る衝動に任せて、声を張り上げる。
「ありがとうございま――す!」
 彼らにその声が届いたかどうかは、定かじゃない。

   ***

「あいつ消えた方がいいよガチで。ほんと最悪」
 別の日。昇降口で聞こえた声にデジャブを感じる。
 案の定、いつかのグループが大きな声で笑いながら、誰かの悪口を言っていた。
 彼らのことを私は知らない。彼らが誰のことを言っているのかも分からない。私は完全に部外者で、その事情も、何があったのかも知らない。
 知らないけど――。
 つい視線を向けていた私は、またしてもそのうちの一人と目が合ってしまって、睨みつけられた。目を背けそうになって、でも、今度は真正面から受け止める。
 そして私は、一歩踏み出した。

 了


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