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【正座】

会長が亡くなってから一連の法事関連の儀式により正座をする機会が多くなった。若い頃は堂々と胡座を書いていたりしていたのだが、喪主ということもあり、できるだけ正座をするように挑戦の意味でも行ってきた。

慣れた人にとっては正座は楽な姿勢とも言われ、お坊様や、他に思いつくところであれば、将棋の棋士の方も長い時間、正座をすることがあり、本当に練習によってそんな長時間正座ができるものなのかと思ってきた。

外国の方や体重が重い方など、正座が難しい人もいるから、正座をしないこと自体失礼には見られないという見方もあるが、対座する方が正座をしていればこちらも正座しなければとも思う。

今まで何度も同じようなことを書いてきたが、これらの法事のお経などの儀式は科学的に何の意味があるかということは証明されておらず、そういった一見非生産的に見える行いという意味では正座もその一つに入ると思える。

それを言ってしまえば、ご飯を食べ前のいただきますやごちそうさまでした、そして、暑い時にも服を着るのは何故かということと同じであり、こういった儀式や振る舞いは、共存していることへの感謝のようなものであると捉える。

そう考えると、生産的な行動というのは自分を中心とした考え方であるとも捉えられるが、生産的でもなければ他者への貢献もできない。これは最近新札に描かれることになった渋沢栄一さんの論語と算盤の考えに基づくと、どちらも大事なことであるということで納得する。

そんなことを初盆に考えてしまうことは親父さんには申し訳ないのであるが、より論語の部分が欠けている自分を認識して、こういった儀式にはより積極的に誠実に向き合いたいと、正座という行動を通して思ったのであった。

#正座 #初盆 #法事 #渋沢栄一 #論語 #算盤  

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