居心地のわるい花 #22
わたしは、菜々美の話を静かに聞いていた。彼女の目は遠くを見つめ、普段の自信に満ちた表情とは少し違って、どこか迷いを含んでいるように見えた。
「あの人って、なんだか手の届かない花みたいだと思いませんか?」菜々美は小さな声で言った。
彼のことだ。菜々美がいつも話している男性。仕事を通じて出会った彼との関係は、ビジネスの中にあるにもかかわらず、どこか特別な意味を持ち始めているように感じた。彼女が感じている不思議な距離感、その感情の揺れを、わたしは何度も聞いてきた。
「彼、いつも私に言うんです。『何かを手に入れたいなら、居心地の悪い場所にいなきゃいけない』って。」
菜々美の声には、少し戸惑いが混じっていた。彼の言葉が意味することは、彼女も理解しているはずだ。でも、その言葉が自分に向けられていると、完全に受け入れるのはまだ難しいようだ。
「でも、私にはあの人がすごく遠くにいるように思えるんです。まるで、綺麗に咲いている花に手を伸ばしても、届かないみたいで。」
菜々美の言葉に、わたしは頷いた。彼女が感じているこの気持ちは、恋愛やビジネスでも、自分が成長するために越えなければならない壁のようなものだ。彼が言う「居心地の悪い場所」というのは、そんな挑戦の場を指しているのだろう。
「正直、私もわかってるんです。彼が私に何を求めているのか。でも、怖いんです。彼の言う通りに進んだら、私がどう変わってしまうのか、想像すると不安で。」
彼女の声が少し震えた。菜々美はこれまで、女性起業家として自信を持って道を歩んできた。彼女の背中にはいつも強い意志があり、周囲の人たちを引っ張る存在だった。でも今、彼という特別な存在が、彼女に新たな挑戦を突きつけている。それは、仕事を超えた、もっと深い個人的な変化を求めているのだ。
「彼、こんなことも言ってたんです。『今の自分に満足してちゃダメだ』って。まるで、私が今のままでいることが安全で、でもそれじゃ成長しないって言いたいみたいに。」
菜々美は苦笑しながら話した。彼の言葉は、優しさの中に厳しい真実を含んでいた。成長するためには、今の自分から抜け出して、変わらなければならない。彼が何を望んでいるのか、菜々美にはもうわかっている。でも、それを受け入れるのは怖いのだろう。
菜々美は自分の中で葛藤しながらも、何かを見つけようとしている。その姿は、わたし自身にもよくわかる。彼女が感じている不安や、変わることへの恐れは、わたしがかつて感じたものと同じだった。
「でも、きっと彼が言っていることは正しいんだと思うんです。居心地の悪い場所に自分を置かないと、新しい自分にはなれないんだって、そう思うんです。」
彼女の言葉に、わたしは頷いた。成長するには、時に痛みが伴う。自分を守っていた殻を壊し、新しい環境に飛び込むことは決して楽ではない。でも、その変化を避け続けることで失うものは、もっと大きいのだ。
「菜々美、きっとあなたなら大丈夫よ。」わたしは声をかけた。「彼が何を期待しているかにこだわる必要はないよ。最終的には、自分のために動くべきなんだ。彼の言葉を参考にしながらも、あなた自身がどう感じているかを大切にして。」
菜々美は少し考えるように目を伏せた後、ふっと笑みを浮かべた。「そうですよね、結局は自分のためにやるべきですよね。」
彼女の目に一瞬の決意が見えた。彼への気持ちは強く、それが彼女を動かしていることは明らかだったが、それだけではない。彼女自身も変わりたいと思っているのだろう。だからこそ、彼の言葉に心を揺さぶられ、その教えを自分のものにしようとしているのだ。
「どうなるかはわからないですけど、私、もう少しあえて居心地の悪い場所にいようと思います。その先にきっと何かが待っている気がするから。」
菜々美の声には、迷いを乗り越えた強い決意が感じられた。わたしたちはしばらく無言で外の景色を眺めた。ゆっくりと暗くなっていく街の中で、彼女の心に灯る新しい光が、わたしには確かに見えた。