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【短編小説】休眠

どうしても、わたしは彼の天使になりたかった。ちっちゃい頃から、私は誰かの天使になるのが得意だった。

この世でその人が得意なことを素直に褒めたら、その人が本格的にそれを仕事にしちゃって、うまくいっちゃって。で、なんだか幸せそうに暮らしている。そういう人がたくさん現れた。だからわたしは彼の天使にもなれる、そう疑わなかった。

彼に初めて会ったのは、近所にある行きつけの喫茶店だった。マスターの友達と紹介された彼は、あまり健康そうではなかった。

背は高めでひょろっとした体つき。
青白い顔に思わず「やい、ご飯ちゃんと食べてるか。」と聞きたくなった。彼はエンジニアの仕事をしていて、新卒で入社してから10年間同じ会社に勤めてきたが、入社してから今まで、ずっと辞めたい気持ちがどこかにあると言った。

「そんなにイヤなら、辞めちゃえば。」と私はクリームソーダのアイスをすくいながら言った。

「そんな簡単に、決められないよ。悪い人はいないの、会社の人。」とコースターをいじいじしながら、弱弱しく彼は言った。なんて男気のない、いじけた男だと思ったその時、コースターに描かれた文字に気が付いて聞いた。

「それ、なんて書いてあるの。」

「あ、なんでもないよ。」と彼は言って、コースターを裏返してしまった。見せてよ、とコースターを奪い取る。そこには、こう書いてあった。

怒りだった もくもくとした 白いタコ 
大バクハツの とまらない雨

「なにこれ。」と聞くと、「えっと。」と彼はますます顔色が悪くなった。
青白いを通りこして、茶色っぽくて白い。明らかに憔悴していた。
私は長年培ってきた経験に基づく勘が働いて、「あぁ、これはこの人にとって大切なものだ。」と思った。

後になってこれは短歌で、彼は日記がわりに日々のあれこれを短歌にして残しており、この日の短歌は、入道雲から急に大雨が降った日、びしゃびしゃに濡れながら思ったことなのだと聞いた。

私は、この短歌が上手いのかどうか、全くわからなかったが、なんだか気になった。心が惹かれた。お店を出るときにはもう、「彼の天使になろう。」と決めていた。でも本当は、はじめに彼の目を見た時に、この人は私にとって特別な存在になるという感覚が既にあった。

それからは、早かった。なんだかんだと理由をつけて彼のマンションの部屋にあがりこみ、掃除して洗濯をして料理を作って、彼の短歌について心のままに率直に感想をのべた。

あなたの短歌には何か心をもっていく力がある。おとぼけているけど、心に、覚えがあるの。すごくいいから多くの人に見てもらったほうがいい、というようなことを言った。

彼はSNSで短歌を発信するようになり、そこから本の出版が決まるまで、あっとゆう間だった。ご飯をしっかり食べて健康的な生活をしはじめた彼は、顔色がよく元気そうに見えた。

好きな事がもうすぐ仕事になる。彼は、もうすぐ生きたい自分を生きられる。私は彼の天使になれたのだ。そう思った。

でも彼は、原稿の何度目かの推敲の途中で、姿を消した。

前の日のことを私は今でも覚えている。夜ベットで寝転がって、夢と現実をいったりきたりしていた私に、彼は休眠細胞の話をした。珪藻の細胞って、飢餓とかストレスがあると、成長することも死に向かうこともなくてゼロの状態になるんだって、と話をしていたが、私はその日ものすごく疲れていて、今にも寝入ってしまいそうだった。その後に、確か彼はこう言った。

「生きたくもないし、死にたくもない。休眠細胞になれたらいいのに。」と。消えゆく意識の中で、あ、まずいと思ったが、私はそのまま眠ってしまっていた。

次の日に彼がいなくなったことに気づいてやっと、私は彼の天使になることに失敗したことを知った。正しくは、天使になった、でも、その後にそうではなくなって、今もそうではない、ということ。

彼が出て行って、彼から一度メールがきた。もう少ししたら、ちゃんと話すから、と。

これから私たちはどうなるのだろうか。わからない。
でも、私にはこの手のひらからすべり落ちる瞬間の残酷さと向き合う時間が必要だと感じる。

はい、これで、ぜんぶちゃんちゃん。終わり。ハッピーエンドでした、なんて存在しない。反対もそう。人生はずっとずっと続いていく。私も彼も。

「私も休眠しますか。」と口からこぼれた。

私たちに今必要なのは、明確なこれといった確信できる答えじゃない。
植物に土のエネルギーを蓄える冬が必要なように、私たちに必要なのもきっとただ、休眠する時間。彼には彼の必要なことを、私には私の必要なことをやろう、ただ、やっていこうと。

ピカンと晴れた空は、急速に分厚く灰色の雲を一点に集めて、大粒の雨がひとつ、額に落ちた。

おわり

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