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コミックマーケットのほんとうに始めのころのこと

1975年ごろのこと、私は大学2年生でした。SF研究会に所属して、私は漫画家になりたくて毎日漫画を描いていました。空想科学的なことが好きだったので、SF研究会に所属していました。実は、入学した1974年に、さいしょは漫画研究会に入ったのですが、田舎では上手だと思っていたのに、あまりにみんなが上手で自信を無くしたところに(いしかわじゅんさんがいらっしゃいました。あまりに上手でショックを受けました)、漫研の近くにSF研があったのでそこをのぞいたところ、そこの人たちと話が合うので、漫研をやめてSF研に入りました。実は、1974年はブルース・リーの「燃えよドラゴン」公開の年で大ブームになっていて、私もご多分に漏れずすっかりとりこになって、大学の空手同好会に入りました。ところが稽古がきつくて耐えられず、「やっぱり僕には漫画しかない」とか都合よく考えて空手同好会をやめました。ブルース・リーへの道は遠かったです。
話がそれましたが、SF研究会にたしか3年生だったと思いますが、漫画評論家になられた米澤嘉博さんがいらっしゃって、米澤さんが、「『コミックマーケット』をやるのでみんな参加してください」というようなことを部員の前で話されたことを思い出します。当時、私たちは、漫画やSFの評論や自作の漫画をのせた同人誌を作っていました。評論やSF小説はガリ刷りで、漫画は青焼きで雑誌を作って、東京の大学のSF研究会が集まって定期的に雑誌の交換会をやっていました。(早稲田はSF研がなかったのでミステリ研が参加していました)初期のコミックマーケットに私たちも参加しました。たしか蒲田駅前の何とか会館とか、板橋産連会館みたいなところで開催されたコミックマーケットに参加した記憶があります。また、四谷公会堂を全館借り切ったイベントもあって、そこは圧巻でしたね。萩尾望都さんの「ポーの一族」をスライドで音声入りで展開するスライドアニメみたいなものがどこかの同人が出品していて、これはよくできていました。萩尾望都さんと「地球へ・・・」の竹宮恵子さんはSF研業界ではかなり有名であこがれのクリエイターでした。虫プロから借りてきたという「ある街角の物語」の上映も楽しかったです。「11人いる!」もスライドアニメで見たかもしれません。米澤さんが所属していた九州の漫画同人誌も売られていたように思います。私は買いました。(米澤記念館に寄付しました。所有していた米澤さんの漫画が乗っている青焼きの同人誌「GORI」も記念館に寄付しました)
今のコミックマーケットになる前の初めのころの同人誌に参加できて、とても幸福な思い出のひとつになっています。

あのころ、新宿の紀伊国屋アドホックにゼロックスのコピー機があって、そこで「少年マガジン」の新人賞に投稿する前に原稿をコピーしたところ、一枚50円くらいして、たいへんな出費だったことを思い出します。ちなみに新人賞はひっかかりもしませんでした。たしか銭湯が55円でした。

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