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身体性を取り戻す

6月10日

毎朝7時に始める恒例の座禅が今日は8時からスタート。

というのも、昨日、女性3人と私1人という、そこらのモテない男性諸君が悔しがりそうな環境で飲んでいた為、ついつい楽しくて酒が深くなり、今朝少し二日酔いだったのだ。 


座禅を毎日するようになってから、精神的にすごく調子が良い。 


道元が「禅は安楽の法門なり」といったが、その通りだと感じる。


私は、禅は宗教だと思っていないのだ。 


座禅は宗教的な修行の一環であるのは間違いないが、果たして、禅宗は仏教の一部派といえどもそれは世界中の人が定義するいわゆる「宗教」という枠に収まるものなのだろうか。 


私にはとてもそうは思えない。


禅は(基本的に原始仏教もそうだが)、神仏を拝むとかいう行為からは遠いところにある。 


座禅や作務(さむ)、その他日常を通して己を律していくところに宗教的意義を見出し、より高い人格形成(仏陀)を目指すのが禅だといって良いと思う。 


禅の修行は、何も座禅を組むだけではない。


上記したように、作務(さむ)も立派な修行になる。つまり肉体労働が立派な修行と見なされるのである。


それは「禅病」というノイローゼ状態に陥ることを防ぐ為でもあるらしいが、頭でっかちになることを戒める為でもあるとおもう。


最近やたらと精神を病む人が増えた。


一昔前まで、ほんの極々一部の人くらいだった鬱病患者はどんどん増えるばかりだ。

私も、何度も精神的な危機に陥りかけたことがある。


そういう時の気分ほど最悪なことはなく、あのどこからくるかわからない強烈な不安感の正体は一体何なのだろう。


ただ私は何度も鬱病になりそうになりながらも、その都度克服してきた。


それは、身体を使うことによって、なのだ。


禅では禅病に陥るのを防ぐ為に作務をさせるように、私は取りあえず、気分が暗くなりそうになったら、走る。


そして、バテるまで筋力トレーニングをする。 


それか庭仕事や掃除などをする。


昔、陽明学者の安岡正篤の本で「 禅の作務でする雑巾掛けで、ノイローゼなどは一発で治る」というようなことを読んだのを思い出した。


現代人が精神的に弱くなったのは、その身体性の貧弱さにあると思う。 


今の人は、驚くべきことに、一日中パソコンの前で仕事をし、頭しか使っていない。

人間、頭だけで出来ているのではないという当たり前の事実に気づかなければいけない。


昔から、「頭寒足熱」といって、「頭は冷やす」のが良いとされた。頭に血が上らないようにするためである。


また日本人は昔から丹田という下腹部が重要な部分だという認識があった。 


禅でも武道でも、丹田を意識させる。頭ばかり使うことを戒めた為である。


昔の日本人は明るくおおらかだったという江戸末期にきた外国人の記録がたくさんあるが、日本人が今みたいに陰気臭くなったのは、身体性を忘れ、頭ばかり使い、精神的に弱くなったからだろう。

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