「国語改革」について少し思ったこと

日記6月2日分


今日は毎朝のごとく、朝からフィンランド人の友人と座禅を30分。 そしていきなり朝8時からはitalkiでオンラインの日本語授業だった。

昨日予約があったばかりで、生徒はクエート人のヨーセフという33歳の男性。弁護士らしい。日本語能力検定のN4を持っているようだが、こちらが話す内容を結構理解していたので、レベルとしてはそれよりも全然上だろう。

授業は会話中心にすすめたが、途中から話が漢字について及び、彼が戦前の日本の漢字が今と違うことを知っていたので、俺は何故今の漢字と昔の漢字が違うのか、その経緯を少し説明してやった。

日本で戦前使われていた漢字は、現在台湾や香港でも使われているもっと伝統的な漢字であり、アメリカに戦争で負けてから色々な過程を経て「常用漢字」というものが設けられたこと、最初はGHQが漢字を廃止しようとしたが、日本の識字率が驚くほど高かった為一旦はそれを諦めたが、その後日本の改革主義者たちがそれを推し進め結局は「国語改革」というものが行われ、漢字は少し簡略化され仮名遣いも変えられたという説明をした。

そしてわかりやすく、「気」という漢字は、以前は「氣」と書き、「氣」の中の「米」はエネルギーを表すものだが、「気」の中の「〆」は「エネルギーをしめる」という意味がある、また「殺」や「凶」という時を見てほしい、この不吉な漢字には「〆」という字が使われている、つまり、言葉を変えられることによって、日本人は弱くなった、こんな説明をした。


こういう話になると俺も少し熱くなる。

現在は現代仮名遣いが当たり前になり、自分も現代仮名遣いで育って来たからこれも現代仮名遣いで書いているが、個人的にはなぜ「国語改革」をする必要があったのだろうと思う。

お陰で俺たちは戦前の書物を読むことが難しくなり、伝統と切り離されてしまった。 俺は日本の強さは長い長い伝統から来ていると思っているが、俺たちの伝統は戦争に負けたことのヒステリーにより、一部切り取られてしまったのだ。

俺はこれを、日本の歴史的な一大事であると認識しているが、危機感を持っている人は少ない。戦後の日本が不甲斐なく芯のないアメリカの妾(めかけ)のような国に成り下がってしまったのにそれを一向に恥じることのない国に成り下がったのも、この「国語改革」の影響がかなり強いのではないかと思っている。自国の言葉を大事にしない国が、自国に自信を持てるはずはないのだから。

「戦後の日本国に重みが無いのも、日本が伝統を捨てたからなのだ」と、約三年前、英国の重厚な伝統様式が残る街並みをみて感じたが、やはりあの時に思ったことは間違ってないと思う。



このクエート人の生徒は、弁護士というだけあって、とても知的だった。日本語の勉強はオンラインで2年間勉強しただけだというが、語学を習得するのには必ずしも留学をする必要はないなと改めて思う。

昼からは、官庁のコールセンターのような仕事の説明会にいった。 ただ、昨日の日記にも書いたように、ようは好きな仕事で食えるようになるのもならないのも自分の「覚悟」次第なのだと思うと、この説明会には行くべきではなかったのかとも思う。

夜は、オリバーと少しビールを飲んだ。 今行っている日本語学校に通っても日本語の伸び具合がある程度見えているので、日本語学校やめて、一回フィンランドに帰り、金貯めて、次はワーキングホリデーで来ようかと迷っているが、どう思う?と聞かれた。

俺はしばらく考えてから、「今は帰らないほうがいい。中途半端だと後悔する」と答えておいた。


俺が、今まで英語の学習で、中途半端なまま日本に帰って来て激しく後悔したことがあったからだ。

オリバーにそう伝えた後、ふと自分を振り返った。

「お前の今やっている努力も中途半端じゃ無いのか?」と。


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