プリンシプルのない日本

今、白洲次郎の「プリンシプルのない日本」という本を読んでいる。 

このタイトルの「プリンシプル」というのは「原則」ということである。俺はずっとこの本のタイトルが気になっていた。 

俺は時々行く近所の定食屋でそこの店主である兄さんといろんな話をする。 話題は音楽や、社会的なこと、また政治や日本論までに及ぶこともあるのだが、ある時彼はこう言っていた。

「一神教の国には軸がある、だからどこかで道に逸れることが起こってもそのコアとなるものがあるから絶対に中心に戻ってこられるという安定感があるんだ。日本にもそんなものが必要なんではないだろうか」

何故かその話題がずっと頭に残って居て、それ以来、軸を失った、頼りない今の日本国家、また日本人そのもののことをよく考えるようになった。 

プリンシプルとは「原則」である。つまり、「プリンシプルのない」ということはある一定の原則に従った行動をとらず、ご都合主義的にその場で意見や行動をコロコロ変える、ということだ。 つまり簡単にいうと、一本筋が通っていない、ブレまくりの、あまり信用のできない奴ということだ。 

では、西欧人のプリンシプルとは何だろうか。 今ではあちらでも多くのものが失われているとはいへ、彼らのプリンシプルとなるものはきっとキリスト教や、騎士道精神、または英国では紳士道に基づいた行動規範、もしくはそれらを引っくるめ伝統的に醸成されてきた価値観ということになるだろう。

僕には西欧人のプリンシプルが実際は何かなんて知らないしあまり興味がないが、実際ヨーロッパに行くとわかるが、ヨーロッパの伝統の重厚さは本当に偉大だなと感じる。特に建築物などを見ると伝統を大切にしていることがわかる。だから、アナーキズムや男女同権だとかLGBTだとかラディカルな思想がでてはくるが、土台がしっかりしているから、あちらの国には余裕があるのだ。 

また中東の人々のプリンシプルの根幹を成すものは間違いなくイスラム教だろう。 イスラム教の教えは、非常に厳格故、信徒の人々の行動の一切を規定し縛り上げる。

両宗教とも、聖書やコーランという唯一絶対の経典というものが存在し、その教えを拠所とする国々には、一つの絶対軸ができる。 

では一体日本のプリンシプルは何なのだ? 
俺は最初それは天皇だと思った。天皇という聖なる中心軸があるからこそ日本という国が存続し、安定があるのだ。間違いはない。あの戦争の末期のどうしようもなくなったとき、あの昭和天皇が英断がなければ日本はさらに焦土と化したはずだ。 政治がだめになっても天皇がしっかりしていたから日本は復活できたのだ。間違いなかろう。 しかし、天皇は国民の精神の拠所とはなるが、日本人自身の行動規範を律するものとはなりえない。カトリック教徒がローマ法王を心の拠所としても、ローマ法王が行動規範にならないのとおなじことだ。

日本は多神教の国である。八百万の神の神道もあれば、様々な仏や菩薩を祀る大乗仏教もあり、主にはこの2つが混在して日本の国柄を形成してきた。(キリスト教や儒教は脇においておく) 明治維新までは、仏教が長らく支配的であり、天皇ですら仏教徒だった。その仏教にも様々な教えがあり、各宗派によって拠所とする経典も違う。 また神道には経典もない。日本はこれらがごちゃごちゃになっている。だから仏教や神道が唯一の日本人全体としてのプリンシプルだったということにはならないし、なりえなかった。

では、日本及び日本人はその長い歴史をプリンシプルをもたずにやってきたのか? いつも右往左往し、ブレまくりの軸のない民族だったのか?

俺はそうではないだろうと信じたかった。 そうでなければ、千年以上もの間、第二次世界大戦後の米国による占領以外侵略を受けることの無かった日本という国家がやって来れたはずがないし、また世界中から称賛を集めた明治という時代はきっとなかっただろうから。 

俺は、日本人のプリンシプルはきっと「武士道」だっただろう、なんとなくここ数ヶ月そう思っていた。昔、漫画や小説で読んで知った、江戸時代、明治時代の日本人たちの姿は、今の日本人とは全くもって別人種のようだった。頼りない今の日本人とはあきらかに違う威厳があった。彼らはプリンシプルに従って生きていた。

あの有名な新渡戸稲造の著作「武士道」が書かれた動機は、「日本では宗教教育がないと聞くが、どのようにして道徳教育が行われるのか!?」というあるベルギー人法学者からの質問からであったらしい。新渡戸稲造は、欧州の人々をキリスト教や騎士道精神が律してきたように、日本人を律してきた原則は実は「武士道」だったと気づいたのだ。

(司馬遼太郎さんの受け売りになってしまうが)昭和の日本は無茶な戦争をやって国を破滅させてしまったが、明治の国家であればあんな戦争は絶対にしなかっただろう。俺もそう思う。日露戦争の日本軍人の振る舞いや戦闘における勇気は世界中において、否、相手国のロシア人からもおおいに称賛された。 明治の軍人たちは皆、江戸時代に生まれ武士道教育を叩き込まれた人たちであった。 つまり「武士道」というプリンシプルを身に備えた人たちが明治を作った。だから明治は偉大だったのだ。

この「プリンシプルのない日本」の最後の方に白洲次郎とその仲間たちの対談が載っている。 そこにこんなことが書いてあるのを見つけた。

白洲「(日本人は原則的な考え方をしないということについて)どうして日本人はそういう考え方をしないのかね。アングロサクソンだけじゃなくて、西洋人というのはみんなそうだね。日本人も維新前までは、とてもはっきりしていたらしいな。昔の武士の一番大切なことは、それだったらしいな」

やっぱりそうだったじゃないか! 
俺は思わず膝を打った。

繰り返すが、日本人のプリンシプルは「武士道」だったのだ。 だが、悲しいかな、もう日本人が「武士道」を取り戻すことは無いだろう。 一回廃れたものはもう取り戻すことは難しいし、そもそももう日本に「武士階級」は存在しない。それに、豪奢にまみれ金の亡者と化してしまい、贅沢を抜け出せない日本人の堕落と腐敗は、必ず、もう一度国が滅びるまでは続くだろう。 

「武士道」だなんて古臭い、時代遅れ。
 
そんな声が聞こえてきそうだ。 

プリンシプルのない日本人に何を言われても構わない。

だが、日本人はもう一度自分たちのプリンシプルを身に着けなければならない。


人間、立派に生きて行こうと思えば、何か貫くものを持たねばならない。 これは俺に対する戒めでもある。 ここ数年、自分でも恥ずかしいほど右往左往しブレまくっていた俺は、自分のダサさを感じるが故に、最近つとに人生を貫くプリンシプルの重要さ、またそれを貫く意志の強さを持つことの重要さを感じるのである。

小粒ばかりになった、売国的な政治を繰り広げる日本において、俺だけは、せめて俺だけは、プリンシプルのある男だと言われたいな。そう思うのである。 だって、日本人はこんなものか、なんて思われたくないからね。



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