見出し画像

「熊野詣で日記13」 最終回

朝は、ゆっくりと目が覚める。

まだオリバーもマサキも寝ていたので、私は本棚にあった「日本•ユダヤ 封印の古代史 【仏教•景教篇】」という怪しい本を一人読んでいた。内容はあまり覚えていないが、トンデモ説だとわかっていながらもロマンはある。

大乗仏教の成立にはキリスト教の影響があるというのを他の何かでも読んだことがあるが、イエスキリストの弟子トマスがインドまでやってきたのは知られているそうで、そのトマスが持ち込んだキリスト教の影響があってか自力救済の宗教であった仏教が、阿弥陀如来や久遠実成のブッダというような超越者に救いを求める宗教に変わっていったのだという説がある。

荒唐無稽にも聞こえるが、可能性も全く無くはないだろう。恐らく仏教学者は認めたがらないだろうが。

また、空海が唐に渡った時分には(9世紀)、当時の唐の首都長安は世界最大級の都市であり、世界中から多くの来訪者がいた。長安では景教というネストリウス派キリスト教が流行っていたそうで、そうであるならば空海が景教に触れていないわけがなく、空海が確立した真言密教の教義にその影響を与えたのではないかという、「トンデモ説」もある。

確かに真言密教の教主であり宇宙の真理そのものといわれる大日如来(毘盧遮那仏)は、キリスト教やユダヤ教における一神教の神に類似している。

実際に、E.A.ゴルドンという英国人女性が「仏基一元論(仏教もキリスト教も本は同じという理論)」を説き、生涯研究をしていた。

ゴルドン夫人は、中国で発掘された景教碑のレプリカを高野山に贈呈したりもしている。  

2人が起きると、昨日買っていた隣にある店の高級食パンで朝食を取った。 そして熊野を歩くまえに買っていたコーヒーの余りをドリップし、優雅な朝食となった。

この日は風見荘で自転車を借りて、9時から活動開始したのだが、空はこの上なく晴れ渡っていて、気温も暖かく最高の観光日和だった。

伊勢参りはまず、外宮そして内宮という順番で参拝するのが習わしとなっているそうである。  

私たちはまず外宮から参った。

さすがに伊勢はコロナ禍の状況下においても観光客が多い。   

外宮の森は、多種多様な木々がみごとに調和していて、森が明るく全体が生き生きしているような印象を受けた。   

鬱蒼として陰鬱だった熊野の荒れた杉林とは大違いである。 

熊野は、日本全国の他の地域の例に漏れず杉の植林だらけで、落ちた葉も土に帰らず散乱しており、あちこちに倒れた杉が放置されていて荒廃が酷かった。

だが、伊勢の神宮の森は違う。しっかりと手入れされており、明るく、生命力があり古来の自然林の姿を保っている。

これは地域の住民の信仰心の深さが関係しているに違いないのだと思う。

というのも、真に信仰心があれば、神の住まう土地を汚してはならないと思うはずで、森を荒廃させたままにするはずはないのである。

熊野も、本宮に近づくにつれ森林は整備され綺麗であったが、それも住民の信仰心が関係しているだろう。

私はここでも、林野庁が主導した戦後の森林政策の愚策を嘆くのであった。

また伊勢の社は「神名造(しんめいづくり)」という様式で、神代(かみよ)の社の雰囲気をそのまま残している。

茅葺屋根の雰囲気が、古代美と荘厳美と簡素美を全て一身に兼ね備えており、これこそ「日本美」なのではないかという感じがする。仏教が入ってくる前の日本の雰囲気を今に伝えていると思う。

私たちはつづいて、自転車で4キロ先の内宮まで向かった。内宮には、日本人の総氏神様と言っても良い、天照大御神(アマテラスオオミカミ)が祀られている。  内宮の参拝はお伊勢参りのメインイベントだといって良い。

内宮の前のおはらい町通りでは人が賑やかで、コロナ禍にもかかわらず人がごった返していた。 江戸時代に戻ったかのような情緒ある町並みは、都会からやってきた私たちにとってはまるで異世界にいるような心地だ。

江戸時代には「お伊勢参り」といって、日本全国から様々な人たちが農閑期などを利用して巡礼に来ていたらしいが、きっと今私たちが見ている光景は、人々の装いがかわってしまっただけで、基本的にその時と同じような光景を診ているのだろうと思った。

五十鈴川の川沿いには桜が咲き乱れていて、この景色も御伽噺の世界に迷い込んだかのような錯覚を覚えさせられるのだ。

この日本の宗教的聖地にて、日本の象徴とも言えるこの満開の国花を目の当たりにしたとき、私ははっと気づいた。

この旅行に来れたこと自体が、巡礼の功徳であり神の恩恵だったのではないかと。

この忙(せわ)しない日本において、高野山、熊野三山、補陀落山寺、伊勢の神宮という日本最高峰の聖地を何日も使って悠々と巡礼できる人がどれだけいるだろうか。

今世間では、まさに多くの人たちが身を粉にし、日本経済をまわすために一生懸命働いている。

私がいたコールセンターでは今現在も、かつての仕事仲間たちが一日何十件もの電話に対応し、クレームを処理し、意味不明な上司の司令に苦慮し、神経をすり減らしているのだ。

そんな中、私らは大阪で朝から酒を飲みストリップを鑑賞し、歩いて熊野古道を巡礼し、またそれだけではなく高野山やお伊勢参りまで来られた。 

幸運とはまさにこのことではないだろうか。

仕事を失うことがなかったらきっとここには来られていなかっただろうし、もしかしたら、 私がこの旅に出られたことは神仏のはからいであったかもしれず、そうだとすればこれほど有り難いことはないではないか。


内宮の社殿に着いた。

 

数年前に式年遷宮で建て替えられた天照大御神が祀られる神明造の社のまで来た。

社を目の前にすると、大きな神社では個人的な願い事ではなく、広く公(おおやけ)のことや世界のことを願うと良いというのを読んだことを思い出した。

私は自然と、この国が末長く繁栄し、また全国民が幸福のうちに過ごせる国家として機能し、現在の不名誉な日本の国際的立場を脱し真の独立国家となるように願っていた。そしてその為に私もしっかりと努力すると心に誓った。


夜は、再び旭湯でお風呂に入り、宿の近所の「かりん」という小料理屋で飯を食いビールを飲んだ。

店主の女性からは、潮垢離は旭湯ではなくちゃんと二見ヶ浦まで行きなさいとお叱りをうけた。

そして、区切り打ちで三度もお遍路を回っている彼女は、私が今まで二回遍路したことがあるというと、遍路は三回しなさい、一回目と二回目はは父方と母方の先祖供養のため、そして三回目が自分のためだと教えてくれた。  またいつか三回目に行かねばならぬ時が来るのだろう。

次の日は、三人で二見ヶ浦を観光し、昼過ぎに電車に乗り、四日市で別れた。 私はここから高速バスを乗り継いで福岡まで帰り、オリバーは京都に行き、マサキは大阪に帰った。

そして私はこの最後の日記を、四日市のサンマルクカフェで書いている。

四日市は、特に観光資源があるのでもない中型の地方工業都市である。ここまでくると、熊野や伊勢のような文化的なそして宗教的な雰囲気は無く、外をうろつくような気も起きなかった。

熊野の旅で感じた大自然の心地よさは、今ではもう完全に薄れていて、世俗の空気感というのはこうも圧倒的なものなのかと驚いた。福岡に着いたらいよいよまたただの日常に逆戻りなるだろう。

私はそう思うと、心底福岡に帰りたくなくなるのであった。

巡礼や長期の旅に出るといつもそうだった。

せっかく世俗を離れて研ぎ澄まされた自分の内面が、日常生活を送るにつれてまたすぐに垢が蓄積され、元の自分に戻るのは勿体無い気がする。

だが、人間、仙人にでもならない限りは、誰しもが世間の中で生きなければならないだろう。

西洋人は神を恐れ日本人は世間を恐れるというが、日本の世間では常に誰かの監視を受け、国家の管理のもとで生きなければならない。

西洋の「神」の下で生きるよりも、日本の「世間」の中で生きるほうがもしかしたら辛いのではないか。

コロナ禍においても、自ら粛々とあらゆる行動を自粛するのみならず、国家とマスコミのいうことを鵜呑みにし、世間から外れて生きる人を糾弾するのは、戦前からメンタリティーが変わっていない証拠である。

私はそんな日本の世間に絶望しているが、それでも日本は私が生まれ育った国で好きである。 

「大衆はいつも間違う」とナイチンゲールは言ったらしいが、それを踏まえて、そんな世知辛い日本の世間も悪いことばかりではないと信じたい。

情報では気が滅入ってしまうようなニュースばかり入ってくるが、実際私は良き人たちに囲まれて生きている。 

きっとそういう人たちに報いて生きていくのが一番幸せな道なのかもしれない。これを書きながらそう思ったのである。

終わり


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?