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四月ばかの場所3 出会い

第1話第2話

仕事を二時に終えて、家に着いたのは三時ちょっと過ぎ。リビングでは四月ばかが本を読んでいた。

「起きてたの」

昨日取り付けた小さなライトは、思いのほか部屋全体を照らしている。

「何読んでるの?」
「イブ・シモンの『漂流教室』」
「ふーん」

あたしは煙草に火をつける。テーブルの端にはノートと数学の問題集が置かれていた。

「つっこめよ」
「え?」
「『感情漂流』だから。『漂流教室』は楳図かずおだろ」
「……あー」

オレンジ色の明かりに照らされた四月ばかの顔を見ると、短い顎鬚の中に茶色い毛が混じっていることに気付いた。外国のおじさんみたいだ。

「楳図かずお、フクちゃんが井の公で見たって」
「俺も見たことあるよ」
「え、マジで? 言ってよ」
「そんな見たいか? 吉祥寺住んでる奴なら結構みんな見てると思うよ」

部屋のすみに、CDウォークマンと小さなスピーカー、ファイル型のCDケースが置いてある。出かけるまではなかったものだ。ファイルをめくると洋楽が多かった。

「聴きたいのかけていいよ」

そう言われても知らないアーティストばかりだ。適当に一枚選んでセットすると、インストゥルメンタルの心地よい音楽がごく絞られたボリュームで流れはじめた。

「明日仕事の面接行く」
「バイト?」
「契約社員。宅配便ドライバー」
「受かるといいね」

四月ばかはふと思い出したように「紅茶飲む人」と言う。

はい、と手を上げると、言い出した四月ばかも手を上げていた。じゃんけんになり、チョキを出す。

チョキを出す一瞬前に「勝った」と感じたら、やっぱり勝った。

新たに書き始めたばかりの小説が思うように進まない。

主人公の過去の恋愛がどういうふうに始まってどういうふうに終わったかを書いていると、どうしても説明的になりすぎてしまい、書いては消し、消しては書き、を繰り返している。

上書き保存し、Wordを閉じる。今書いているのは六月末締め切りの新人賞に応募するための小説だ。

玄関のほうからドアが開く音と閉まる音が聞こえた。四月ばかが面接に行ったのだろう。

キッチンへ行き、赤いホーローのやかんを火にかけた。

キッチンの出窓には綺麗な紅茶の缶が置かれている。外国のもののようだ。開けると、中には一回分ずつ包装されたほんだしが入っている。水切りかごには洗った食器が伏せてあり、もうほとんど乾いていた。

おおざっぱなところがあたしと四月ばかの共通点だと思っていたのに、四月ばかは案外きちんとしている。「気持ちよく暮らす」ことが彼にとっては大切なのだろう。

キッチンの床に座り、青い炎を眺めていた。

吉祥寺に住んでいた頃、四月ばかは二年がかりで大検を取った。

その頃の彼は「京大に行きたい」と言っていた。あたしが「なんで京大なの?」と聞くと、彼は「俺がすげぇ面白れぇって思う人って京大出てる人が多いんだよ」と言い、何人かの名前を挙げた。

あたしは「中卒で京大行ったらすごいねー」と笑った。四月ばかならできると信じていた。

四月ばかは、彼女が留学から帰ってきたら結婚すると言う。京大はどうなったんだよ。

お湯が沸いた。粉末のわかめスープをお湯で溶き、キムチの素をどばどば入れる。

いかにも体に悪そうな赤色がスープの中に広がっていく。

四月ばかと出会ったのは秋の初めだった。

十六歳で、まだ札幌の実家にいた頃だ。

あたしは「行きつけのバー」を探してすすきのを徘徊していた。

バーに行ったことはないけど、小説を読む限り「バー」はひとりで行ってもマスターと話ができるし、マスターと常連さんの会話に入れてもらうこともできる、らしい。あたしはどうしてもバーに行ってみたかった。

夜のすすきのは初めてだった。看板はいっぱいあるけど、どこがあたしの理想とする、小説に出てくるようなバーなのかがわからず、どの店にも入りかねてうろうろしていた。

駅前通りは大きなお店しかないので(あたしのイメージはカウンターだけの小ぢんまりとしたお店だった)、細い道に入ってどんどん歩いていくと、街はネオンの灯りを失い、夜本来の暗さを取り戻していく。

何度も道を曲がって、もうどうやって来たのかもわからなくなった頃、頭の上でがらがらっと音がした。

見上げると、ボロい建物の二階の窓が開けられたところだった。白い半そでの、男の人のものらしい腕が見える。そこは飲み屋らしく、薄暗い店内から音楽とにぎやかな笑い声がこぼれた。

あたしがぼうっと見上げていると、男の人が顔を出した。目が合う。

「おう、入れば?」

ドアを開けて照明のない暗い狭い階段を上る。上りきるとすぐお店になっていた。店内は外から見るよりずっと狭く、カウンターしかない。椅子は七つ。

カウンターの中に声をかけてくれた男の人がいて、その他に三人の客がいた。三人とも二十代前半くらいで、二人は男、ひとりは女。みんなオシャレで恰好よくて、気が引けた。

「はじめて?」

カウンターの中から男の人が言った。

「はい」

三人が並んで座っている席から一つ空けて、腰かける。

「何飲む?」

メニューを探したけれど、それらしきものは見当たらない。

「何があるんですか?」
「ここにあるものなら何でも」

カウンターの奥にはお酒の瓶が並んでいる。当時のあたしはお酒の名前なんて一つも知らなかった。

「甘いのがいい」
「わかった」

男の人はグラスに氷を入れ、赤い液体とサンキストのオレンジジュースを注ぎ、マドラーでかき回した。

「はい」
「これは何?」
「カシスオレンジ」

飲んでみた。生まれて初めて飲むカクテルは、リクエストどおりに甘かった。

「名前なんていうの」
「早季」
「俺、アリタ」

アリタと名乗る彼は、とろんとした二重まぶたの目をしている。

「未成年でしょ」
「あ、十六……」
「大丈夫だよ、俺も十七だから」
「うそ」もっと年上かと思った。

「明日学校なんじゃないの」彼は唇の端を持ち上げて言う。子ども扱いされていると感じた。

あたしが高校を中退して今はバイトしていると言うと、アリタはたいして興味もなさそうに「バイトしてないときは何してるの」と聞く。彼の態度はどこか人を食った感じだ。

「小説書いてる」
「へぇ。今度読ませてよ」

彼は笑いを含んだ声で言う。どうせたいしたもの書いてねぇんだろ、と言われた気がした。

読ませてやろうじゃないか、と思う。あたしはその頃、小説に関しては根拠のない自信を持っていた。

アリタは「ヘミングウェイみたいなのじゃなきゃ読みたいな」と言って、あたしに背を向けてうつむく。CDを選んでいるらしい。

「掃除機とヘミングウェイだけは苦手なんだよね」

そう言って、彼はCDウォークマンの再生ボタンを押した。

小さなスピーカーから、陰鬱なギターの音色が聴こえてきた。





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