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ジョバンニの食卓1 しあわせ

幸せについて、考えてみる。

リビングのソファで眠りこけている陸生(りくお)の、そのおへその下に数本ちろりと生えた情けない毛を引っ張ってみたりしながら。

「いちばんの幸いは、ぼくがここにいることだ」

そう言ったのは、『銀河鉄道の夜』のジョバンニだ。

『銀河鉄道の夜』の絵本は小さい頃、何度も何度も広治(こうじ)が読み聞かせてくれた。ざらざらした画用紙に水彩絵の具で描かれた、手作りの絵本。

主人公のジョバンニは「いちばんの幸い」を探して親友のカムパネルラと銀河鉄道に乗る。旅の途中、ジョバンニは同じように「いちばんの幸い」を探す人たちと出会う。乗客たちはそれぞれの「いちばんの幸い」を見つけ、途中の駅で下車してゆく。そしてジョバンニはカムパネルラがもうこの世にはいないことを思い出し、幸福とは自分が今ここに存在していることそのものだ、と悟るのだ。

ジョバンニの行き着いた答えが正解だとすると、私にとってのいちばんの幸いは、穏やかな夏の終わりの午後、阿呆面で昼寝している幼馴染のへそ毛を摘むこの何気ない日常なのだろう。

……そうか?

カムパネルラ、カムパネルラと小さな声で言いながら、なおもへそ毛を引っ張ると、陸生が苦しげな顔で「う」とも「ぎゃ」ともつかない声を上げた。力が強すぎたみたいだ。

「陸生、起きな。広治帰って来るよ」

すべすべしたお腹をペチペチ叩くと、陸生はようやく目を覚ました。起きぬけの顔は子供の頃から変わっていない。

陸生はボクサーパンツ姿のままキッチンで水を飲み、脱ぎ捨ててあったデニムとTシャツを身に着けた。カーテンの隙間から射し込んだ西日が、陸生のくるぶしを撫でている。

「広治さん、帰ってくるって?」
「もう七時だからね」
「じゃあ俺もう帰るかな」

帰ると言っても、陸生の家はうちから歩いて三十秒もかからない。同じマンションの真上の部屋なのだ。

スニーカーを履く陸生の大きな背中を眺める。いつの間に広治より大きくなったのだろう。

陸生が帰ると、まるでコントのように入れ違いになって広治が帰ってきた。

「陸生来てた?」
「うん。会った?」
「階段上ってく後姿だけ見た」

広治は、留守中のリビングで陸生と私が何をしているのか、感づいているのだろうか。感づいていても言わないだけかもしれない。

私は冷蔵庫からタッパを取り出し、鯵のフライを皿に移しレンジで温めた。広治の母親の智恵子さんが作って送ってくれたものだ。「スープの冷めない距離」に住んでいる智恵子さんは、いつもおかずをクール宅急便で送ってくれる。

簡素なサラダを作り、陸生が寝ている間に作った味噌汁を温め、食卓を整えた。Tシャツとハーフパンツに着替えた広治がテレビをつけたところで、どちらからともなく「いただきます」を言う。

「美希」

広治が、箸を持つ手を宙に浮かせたまま言った。

「何?」
「……いや、学校は? いつから?」
「来週から」
「今年はもう花火したの?」
「明日する」
「ふーん……あっ」

広治が味噌汁をこぼした。

私は父親である広治と二人で暮らしている。

広治は今年、三十六になった。けれどくりくりした目と落ち着きのなさのせいで年齢よりだいぶ若く見える。私はきちんと実年齢の十七に見られるので、私と広治を見て親子だと思う人はまずいない。

私の母親は美雪さんという。現在私が通っている、当時広治が通っていた高校で美術教師をしていた人だ。

漫画家志望の目立たない生徒だった広治と、アンニュイな空気を漂わせた美人教師(これは広治の友達の直登さんが言っていた)の美雪さんは、美術部の部員と顧問として出会い、ひそかに付き合っていた。そして広治が高校三年の冬、美雪さんの妊娠が発覚した。

広治はあと数ヶ月で卒業できた高校を中退し、美大に行く夢も諦め、祖父の経営していた会社に就職した。焼き鳥の串などを作る会社で、今は広治の父親である治雄さんが社長をしている。広治が十八になるのを待って二人は入籍し、その年の秋には私が生まれた。以上が、広治から聞いた私の誕生秘話(全然秘められてないが)である。

ここまでは、女教師と男子生徒が障害を乗り越え、ときには泣いたり喧嘩したりしながらも生まれてきた子供と三人幸せな家庭を作る、ハッピーエンドの物語だ。でも、この物語にはアンハッピーな後日談がある。

私が三歳になった秋、美雪さんは家を出た。

その理由を、私は知らない。広治は知っているのだろうが、私は聞こうとは思わない。知りたくないわけではないが、そんなに知りたいわけでもないのだ。

私には美雪さんの記憶がない。広治の話に出てくる「美雪さん」と、アルバムに残された写真の女の人を結び付けて、この人が自分の母親なんだと認識したのはいつだったろう。広治は絵本を読み聞かせてくれるのと同じ口調で美雪さんのことを語る。物心ついたときにはすでに、「美雪さん」は過去の存在だった。

美雪さんと離婚した広治は、私を連れてこのマンションに越してきた。陸生とはそれ以来の付き合いだ。

人様にはよく「大変ね」と言われる。母親がいないから、若くて頼りない父親と暮らしているから。「大変」の中身はそんなところだろう。

けれど、私は大変だと思ったことはない。たとえ私の生活が人様より「大変」だったとしても、私はこの生活以外したことがないのだから、そうじゃない生活と比べようがない……と思う。理屈っぽいだろうか。

広治は、お酒も飲まなければタバコも吸わないし、パチンコもゴルフもやらない。唯一の楽しみは、特撮ヒーローものを見ることとフィギュアを集めることだ。広治の部屋は昔も今も、壁一面がフィギュアで埋め尽くされている。




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