四月ばかの場所9 メンヘラ

あらすじ:2007年。作家志望の早季は、皮肉屋の男友達「四月ばか」と一年間限定のルームシェアをしている。ある日、バイト先のキャバクラでトリモトさんという変わった男性と知り合い、気になりはじめる。

※前話まではこちらから読めます。

クリニックを出て井の頭線で吉祥寺へ着いたときには、六時を少し回っていた。駅を出たとたん、雨の気配を感じる。少し早いけれど、そのまま店へ行くことにした。

夕方の吉祥寺駅近くを雑多な人々が通り過ぎていく。サラリーマン、OL、高校生、いかにも「自由な生き方」を体現したようなファッションの女の子、「金稼ぐことより面白く生きるほうが大事じゃね?」とか言ってそうな専門学校生風の男の子。

不自由さを感じている人と、無理して自由を演じている人と、本当に自由な人(その自覚がない人)が集まる街。

吉祥寺の雑踏を歩くときはいつも、自分の姿は誰にも見えていないんじゃないかという気分になる。


コンパニオン達が着替えをする部屋は店の二階にあり、「二階」という何のひねりもない名称で呼ばれている。

その二階のソファで、トリモトさんからのメールに返信を打つ。

トリモトさんとのメールは回を重ねるごとにどんどん深い内容になっていった。どうやら、あたしはトリモトさんにとって唯一のはけ口らしい。

メールや日記を読んでいると、彼があたしほどじゃないにせよ気分の波の激しい人だということがわかった。ネガティブで自分に自信がなく、繊細で落ち込みやすい。

彼の上司である先輩は、彼とは対照的に明るくてリーダーシップのある人らしい。トリモトさんは先輩に対して、羨望と嫉妬の入り混じった、わかりやすい劣等感を抱いていた。それをトリモトさん自身が気づいていないところが、おかしかった。

夕べ来たメールには、「コンプレックスがないことがコンプレックスなんですわ」と書いてあった。

『俺はすごく普通なんですよ。普通の家庭に育って、普通の大学行って、普通の企業に就職して。今の会社に転職したのが唯一の普通から逸れた行動なんですわ』と、最後はちょっと得意げだった。

なんか、わかりやすい。とても今年三十になる人の発言とは思えない。『グミ・チョコレート・パイン』読んでそうだし、銀杏BOYZ聴いてそう(あたしも好きだけど)。

四月ばかなら鼻で嗤うだろうこのメールに対し、あたしは真剣に返事を書く。


「さつきさん今日同伴ですか?」

若菜ちゃんが声をかけてきた。くそ、集中しているところなのに。

「同伴、に、なるかも」
「連絡待ち?」
「そう」

同伴に誘った客は「仕事が終わる時間による。終わったら連絡するよ」と言っていた。

「ヒロ君?」
「違う、上村さん。ハンプティダンプティみたいな人」

何それ? と首を傾げられる。

「五十代の、小太りで禿げてていつもベスト着てる人」

若菜ちゃんは納得したように頷き、「さつきさんって色んな言葉知ってますよねー」と大げさに感心したように言う。

「普通だよ」

あんたが言葉知らなさすぎなんだよ、とは言わない。

「普通じゃないですよー。さつきさんって面白いですよ。毒舌だし」

言葉を知ってると面白いのか?

お店の女の子たちは年上も年下もみんな、あたしのことを「変わってる」という。珍種を面白がる感じ。浮いてはいるけれど嫌われてはいないので、珍しがられながらもうまくやっている。

ここでは、高校中退という肩書きは珍しがられないのに「趣味は神保町の古書店めぐり」は珍しがられる。小説が好きとかテレビを見ないとかブランドに興味がないとか、あたしの飲み仲間たちの間ではまったく「普通」なことが、ここでは「変わってる」になる。

「今日ヒロ君来る?」
「どうだろ。あの人連絡なしで来ること多いから」
「ヒロ君いいですよね」

若菜ちゃんは屈託なく言う。他の女の子の指名客とは電話番号を交換してはいけないルールなのだが、彼女はヒロ君とメアドを交換しているし、あたしもそのことを知っている。

メール作成画面の上部に、メールが来たことを知らせる手紙のマークが出る。作成中のメールをいったん保存すると、メール受信中の画面に変わった。

「ウエムラさん?」若菜ちゃんが聞く。

「いや、これプライベート用だから」

メールは四月ばかからだった。ひとこと『鍵なくした』。ばーか。

「あー、彼氏だ」
「違う。同居人」
「え、彼氏じゃないんですか? さつきさん、同棲してるって聞いた」

男と暮らしているからといって、相手と恋愛関係にあるとは限らないだろ。ほんと短絡的で低俗だな。少年犯罪に「ゲームの影響」ってコメントする人間と同じくらい、短絡的で低俗だ。

若菜ちゃんを無視して、四月ばかへの返信を打つ。

「ばれたら指名やめる客いっぱいいるだろうから早く同棲やめさせたほうがいいって、店長言ってましたよ」

本当に、この店もそろそろ辞め時だ。

◇ 

案じていたとおり、うつの波はやってきた。

毎日、何もする気力がない。仕事以外の時間はずっと眠って過ごした。眠っても眠っても、眠れた。

書きかけの小説もほったらかした。脱ぎ捨てた服で部屋は散らかり、髪の毛の絡まった綿埃もそのままにしておいた(すると、増えた)。

四月ばかとは顔を合わせていないので、あたしのうつには気づいていないだろう。

思えば、あたしはここ数ヶ月はりきりすぎていた。

三月末に新人賞に小説を応募し、四月の頭に引越し。引っ越してからは家事も仕事も気合いを入れてやっていたし、すぐに新しい小説も書き始めた。活動的になりすぎて、今その反動が来ている。

営業メールをするのも嫌で、仕事用の携帯の電源を切ったまま放置しておいたら、一週間もしないうちに指名は面白いほど減った。同伴もしなくなった。店長はあたしにこういう時期があることを気づいているのだろう、何も言わなかった。

プライベート用の携帯のメールにも返信していない。SNSは一日に何度もログインするくせに、友達の日記は読んでも自分の日記は書いていない。


でも、トリモトさんのメールにだけは返信を書いた。トリモトさんとはあれ以来会っていない。月末にまた納品に来たらしいが、品物を渡すとすぐに帰ったという。

トリモトさんに打ち明けようか。

実はあたしはうつ病なんです。十六からずっと抗うつ剤と眠剤を飲んでいます。体質に合わない眠剤を処方されて、壁の穴から虹色のひつじが何匹も何匹も出てきたことがあります。十七の頃、「あたしはこんなもの飲まなくても生きていけるんだ」と勝手に朝夕の薬を飲むのをやめました。すると、断薬症状で意識が朦朧とし、地元の駅で倒れました。倒れる寸前、あたしは「あぁ、そうだったんだ、ぜんぶ、ぜんぶわかった、そうだったんだ!」と叫んだそうです。あたしは一体何がわかったんでしょう?

パソコンでそこまで書いて、全消去した。初めから、送るつもりはなかった。

知ってはいたけど、あらためて書いてみると「いかにも」という感じで、自分でも引いた。

あたしは二十四になってもなお、自分を特別だと思いたいし、気になる男に特別だと思われたい。メンヘラなんて、あたし以外にもいっぱいいるのに。

小さな声で「ばかじゃねーの」と呟く。誰もいない部屋に、その声は案外大きく響いた。

イライラして、落ちていた香水の壜を投げた。

ディオールのプアゾンはチェストの上のアクセサリーの中に落ちて派手な音をたてたけれど、割れなかった。

ほっとした。

ほっとしている自分に腹がたつ。あたしは割れないように力を加減して投げたんだ!

うつ病だと言ったらトリモトさんは引くだろうか。案外、食いついてくるかもしれない。





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