どうか今夜だけは、思いわずらうことなく眠って

「東京に戻ったよ」

亜美ちゃん(仮名)からのLINEを受け取ったとき、私は実家の布団の中にいた。心の調子を崩し、実家で療養させてもらっている最中だったのだ。

布団の中でもぞもぞと返信を打ち、言葉を交わす。九州に住む亜美ちゃんは、3人目の夫と離婚し、赤ちゃんを連れて東京の実家に戻ったそうだ。

LINEの文面を見る限り、亜美ちゃんがまあまあ元気そうでほっとした。彼女は長いこと心の病に苦しんでいて、妊娠中からずっと辛そうだったから。実家にいれば、親御さんが赤ちゃんの面倒を見てくれるだろうし、ゆっくり休めるかもしれない。

……けれど違和感がある。彼女はずっと、両親との関係が悪かったはずだ。実家に戻ることは大きなストレスにならないだろうか。それとも、私が知らないうちに関係が良好になったのか?

私はごろりと寝返りをうち、亜美ちゃんのことを考えた。

亜美ちゃんは専門学校で出会った友人だ。

おしゃれで落ち着いていて、東京育ちっぽく肩の力が抜けている。中島敦とロシア文学が好きで、煙草はKOOLを吸っていて、学校に来るとガチャピンのような目をトロンとさせたまま「よっ」と挨拶をする。そんな彼女と、気づけば仲良くなっていた。

私たちはしょっちゅう駅前のロッテリアや神保町の喫茶店へ行き、いろんなことを語り合った。「語り合う」という言葉は恥ずかしいけれど、まさに語り合ったのだから仕方ない。

亜美ちゃんには複雑な家庭の事情があった。詳細は割愛するが、裕福な家庭に生まれ、両親も都内に住んでいるのに、訳あって小学生のときから親戚宅に預けられている。

親の話をするとき、彼女は「ネグレクト」という言葉を使った。私は、ネグレクトは貧しい家庭で起こるイメージ(映画『誰も知らない』のような)だったから驚いた。亜美ちゃんはシュウ ウエムラでコスメを買い、1万円以上する服をポンと衝動買いする。なんでそんなにお金を持っているのか尋ねると、彼女は「父親から毎月振り込まれてるからね」と言っていた。「育てない代わりに金はくれるんだよね」と。

今思うと、亜美ちゃんが抱える鬱屈はとても大きい。けれど、当時の私はそれに気づかなかった。両親のことを話すときの彼女は、とても淡々としていて、「こんなことはなんでもない」と言わんばかりだったから。

卒業後、亜美ちゃんは就職し、数年後には結婚して九州に引っ越した。遠いから会うことは少なかったけれど、連絡は頻繁に取っていた。

お互いに30が見えてきた頃、亜美ちゃんの様子が変わった。とあるきっかけで心の病を発症したのだ。医師からはAC(アダルトチルドレン)であることを指摘され、本人も、子供時代の家庭環境が原因だと言った。心の中に押し込めて耐えてきたものが、大人になってから表出したらしい。

あるとき、亜美ちゃんがSNSに「両親に愛されたかった」という内容を投稿したのだが、どうも文章の様子がおかしい。あとで尋ねたら、精神科の薬が合わなくて意識が朦朧としているときに書いたそうだ。私はそのときはじめて、彼女の傷の深さを知った。

それから約10年が経った。

その間に彼女は3回離婚し、何度か入院したり、ときたま突飛な行動をとったりして私をハラハラさせた。私たちは相変わらず連絡を取り合っているものの、実際に会ったのは数えるほどだった。

亜美ちゃんから引っ越しの報告を受けた3ヶ月後、私は半年間の療養を終えて東京の自宅へ戻った。

心の調子を崩した当初はまったく動くことができず、ひたすら人形のように横たわっていたが、半年かけて少しずつ「普通」を取り戻した。心ってちゃんと休ませたら回復するんだな、としみじみ思う。

東京に戻ってから、久しぶりに亜美ちゃんと再会した。ベビーカーに息子くんを乗せて現れた彼女は、見た目は以前と変わらないものの、以前よりずっと優しい表情をしていた。

再会からしばらく経ったある日、亜美ちゃんから苦しそうなLINEが来た。母親が酔うと暴れて自分や父親に暴力を振るう、息子が心配だから実家を出たいが経済的に厳しい、とのこと。

心配になって電話をかけると、亜美ちゃんは低い声で「……はい」と出た。

「調子はどう? 大丈夫?」

「んー、一応動けてはいる」

「休めてる?」

「しんどいときはパート休ませてもらってるんだけどさ、家にいると安心して休めないから、息子が保育園行ってる間ネットカフェで寝てる」

そんな……。

心の調子を崩したとき、私はひたすら休むことで回復をはかった。それができたのは、実家という安心して休める居場所があったからだ。けれど、亜美ちゃんにとっての実家はそうじゃない。休む場所がネットカフェしかないなんて、どれだけ辛いことだろう。

彼女を休ませてあげたい、と思った。なにも考えずに、ぐっすり眠る時間をあげたい。

居場所を持つ私が、持たない彼女にそんなことを思うのは傲慢だろうか?


私は、亜美ちゃんを旅に連れ出すことにした。休むための旅だ。

赤ちゃん連れであることを考えると遠出はできない。彼女の家から電車一本で行ける銀座で、ビジネスホテルのツインルームを予約した。土曜に一泊、週末だけの小さな旅。

お昼前に銀座駅で待ち合わせ、ベビーカーを押して三越のコスメフロアを見てまわった。買うわけじゃなくても、デパコスは眺めるだけで楽しい。

さんざん見てまわって、レストランでランチを食べた。亜美ちゃんは大きなバッグからタッパを取り出し、息子くんにごはんを食べさせつつ、自分もすいすいと料理を口に運ぶ。大好きなメイクやハロプロの話で盛り上がり(私は亜美ちゃんに布教されハロプロに目覚めた)、亜美ちゃんは上機嫌だ。こんなに楽しそうな彼女を、久しぶりに見た気がする。

そのあと、予約していたホテルにチェックインした。移動中にベビーカーで眠った息子くんをベッドに寝かせ、一息つく。途中のコンビニで買ってきた缶ビールとお菓子を広げて、女子会の準備を整えた。

「お泊り会だ」

「懐かし!」

それから何時間も、とりとめのない話をした。

目を覚ました息子くんは、起きたら知らない場所で不思議そうな顔をしたが、亜美ちゃんと私が口々に「今日は寝ないで遊ぼっか」と声をかけると、「寝ない! あしょぶ!」とベッドの上で飛び跳ねた。

Uberで注文した夕飯を食べ、お風呂に入れ、お相撲ごっこをすると、息子くんは眠そうにまぶたを擦る。きらきら星を10回くらい歌わされたところで、彼はすうすうと可愛い寝息をたてた。まつ毛が長い。

「手がかからないね」

「そう、いい子なの。でもさ、いつも不安なんだよね。この子がちゃんと幸せでいるかどうか。この先も」

「うん」

「あたしは病気だし、実家出て部屋借りられるか不安だし、ときどき生きてくのが怖くなるよ」

「……うん」

私も、いつも怖い。それでも。

「亜美ちゃんは大丈夫だよ。今まで生きてきたんだから。今まで生きてきてくれたこと、嬉しいし、尊敬してる」

亜美ちゃんは言葉を探すように視線を彷徨わせた。

「病気も住む場所も、いっぺんにバシッとは解決しないかもしれないけど、ひとつひとつクリアしてこうよ。私もできる限り手伝うから。休む場所が欲しいときは、また用意するよ。うちに来てもいいし」

亜美ちゃんは「ひとつひとつか……」と呟きながらそっぽを向く。涙をこらえるときの、彼女の癖だ。そして、私から目を逸らしたまま言った。

「前から思ってたんだけどさぁ、なんでそんな、あたしに優しいの?」

なにを今さら、わかりきったことを。

「決まってるじゃん。亜美ちゃんだからだよ」

私は優しい人間じゃない。それでも手を差し伸べたくなるのは、相手が亜美ちゃんだからだ。

知り合ったときからずっと、互いに言葉を重ねて関係を築いてきた。「努力」や「苦労」と言うと少し違うけれど、この関係はふたりで作り上げたものだ。なにもせずに与えられたものじゃない。いつ疎遠になってもおかしくない距離で、私たちはそうならないよう、意思を持って関係を維持してきた。

あなたには、私に優しくされる権利がある。だから、どうか。

「今夜はゆっくり眠って」

小さな窓の端っこに、白い三日月が光っていた。




※この文章は「行ってない旅」をテーマに、事実とフィクションを織り交ぜて書いたものです。どこまでが事実でどこからがフィクションかは、ご想像にお任せします。





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