シンパシー
部室のドアを開けると、正面に座っていた恵那先輩が顔を上げ「おつかれ~」と言った。いつも通りのふにゃふにゃした、気の抜けた声だ。悦郎も同じトーンで「おつかれさまでーす」と返す。
いつもの席に座る。恵那先輩は頬杖をつき、飾り気のないシャープペンでなにかを書いていた。
「なに書いてるんですか?」
「今年度の活動目標。今日提出なんだよね」
「恵那先輩、部長ですもんね」
悦郎が意味なく「部長、部長」と言うと、恵那先輩は「えつろー、ばかにしてんでしょー」と小さく笑う。顔を上げた拍子にショートボブの髪が揺れ、耳にかけていない側がさらりと頬にかかった。
悦郎は写真部だ。星空の写真に興味があり、一年前、入学と同時に入部した。
当時の写真部は、2年生の恵那先輩と、3年生で部長の佐伯先輩だけ。
入部初日に先輩ふたりが付き合っていると知り、カップルと自分しかいない部活でやっていけるのか不安になったが、それは杞憂だった。恵那先輩と佐伯先輩にはカップルらしい雰囲気が感じられず、まるで親友か仲のいい兄妹のようだ。3人でいても気まずさを感じることはない。
写真部は、悦郎にとって居心地のいい場所だった。
この春、佐伯先輩が卒業して写真部は2人になった。
「新入部員、入りますかね」
「あ、勧誘ポスターも期限近いんだった。えつろー描いてよ」
「えー、そういうの苦手なんですよ」
そう言いながら、生徒会の判が押された画用紙を手に取った。この学校は1人でも部員がいれば部として存続できる。人見知りの悦郎は、気の合わない人が入って来るくらいならこのままがいい。
恵那先輩はどんな人が入ってきても、新入部員が疎外感を感じないよう細心の注意を払って接するだろう。昨年、悦郎にそうしたように。飄々としているようで実はとても気を遣う彼女は、たとえ部のことで悩んだとしても、悦郎には言わない気がする。佐伯先輩には相談するかもしれない。
恵那先輩は、佐伯先輩の前で泣いたりするんだろうか。
「佐伯先輩、元気ですか?」
「元気だよ。おととい大学の入学式だったみたい」
「大丈夫ですかね。あの人、恵那先輩がいないとダメじゃないですか」
「意外とそうでもないんだよ。私のほうが佐伯さんに頼っちゃってる」
悦郎は無意識のうちに、ずり落ちてもいない黒縁眼鏡を上げた。
「私、すごいことに気づいちゃったんだけど」
「なんですか?」
「1つずつ学年の違う3人が同じ学校に通えるのって、たった1年だけなんだよ」
「……」
「いや、わかってたよ。わかってたけど、3人でいるのがあまりに楽しかったから。なんか、ずっと続く気がしてた」
この人は、どうしてこうも素直なんだろう。
彼女の、白くふっくらしたほっぺたに触れたくなる。いつか思わず触れてしまいそうで怖い。
控えめなノックがして悦郎がドアを開けると、新入生らしい女子がふたり、入部届を持っていた。悦郎は、入部届は顧問の先生に提出することと、顧問の名前を教える。「今、職員室にいると思うんで」と言うと、ふたりはお礼を言ってパタパタと去っていった。
知らない女子と話すのは苦手だ。いつも緊張して手のひらに汗をかく。
ドアを閉めると、恵那先輩が「今、緊張してたでしょ。手のひらに汗かいてない?」と言った。悦郎がムッとして振り向くと、恵那先輩は「ほら」と手のひらを突き出して見せる。その手が、じっとりと汗ばんでいた。
「えつろーの緊張がうつったの。前からたまにあるんだけど、私、えつろーの感情が伝染するんだ」
「伝染?」
「えつろーの感情が私の中に入ってくるっていうか。えつろーが緊張してると、私も緊張してきたり。なんかイライラするなぁって思ったら、えつろーがイライラしてたりね」
そんなこと、あるだろうか。それが本当だとしたら……。
悦郎は急に鼓動が速くなるのを感じた。
「佐伯さんに話したら、『魂が共鳴してるんだ』って言ってた」
そう言って、恵那先輩はふわっと笑う。佐伯先輩の話をするとき、彼女の表情が和らぐのはいつものことなのに、悦郎は心臓のあたりが苦しくなった。
「……ほかには、俺の感情が伝染したことありますか?」
「えーと、星空の写真撮りに行ったとき。えつろー、ベストショット撮れてテンション上がってたでしょ。なんにも言わないけど、嬉しさが伝わってきてわかったよ。あの日、私はいまいち納得いく写真撮れなかったんだけど、えつろーの気持ちがうつって嬉しくなってた」
あの日の星空を思い出す。3人とも言葉少なに、同じ空を、それぞれのファインダー越しに見つめていた。星は冷たそうで温かそうで、触れそうなほど近くにも、ものすごく遠くにも感じられた。
「今は、なにか伝染してます?」
「……ううん、今は特に」
恵那先輩が自分の気持ちに気づいているのかどうか、悦郎にはわからない。もし気づいていたとしても、気づかないふりを貫いてくれるだろう。
それでいい。
少なくとも恵那先輩が卒業するまで、この日常が続くことを願った。
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