ゲストハウスなんくる荘11 ヒロキ君の恋
あらすじ:那覇にあるゲストハウス・なんくる荘にやってきた未夏子。気ままに生きる彼女は、次第になんくる荘の長期滞在者たちと打ち解けていく。
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◇
まどかちゃんはその日、八号室に移った。
夕食はあたしが八号室まで持っていった。まどかちゃんはシングルベッドにうつぶせになったまま、顔だけをあたしのほうに向けた。まぶたが水風船のように膨れている。腫れあがったまぶたのせいで、ぱっちりした大きな目がいつもの半分の細さになっていた。
「ミカコちゃん、いつも通りにするって言ったのに」
まどかちゃんが力なく笑った。身体はいつもと変わらず細っこいのに、今のまどかちゃんは砂袋のように重そうだ。
「ありがとう。でも、もうご飯持ってきてくれなくていいよ」
「わかった」
次の日も、その次の日も、まどかちゃんはほとんど部屋から出てこなかった。
つまりは、バイトを休んでいることになる。真面目でいかにも責任感が強そうなまどかちゃんが、それを自分に許すとは思えない。そのくらい、精神状態がギリギリなのだろう。
まどかちゃんは、一日に一度だけ、帽子を深くかぶって俯いたまま出かけていき、すぐにマツダマートの袋を持って帰ってくる。食料の調達はちゃんとしているらしいので、あたしはひとまず安心していた。
なんくる荘の住人はみんな、まどかちゃんの異変に気づいていた。
マナブさんが話したのかもしれないし、みんながそれぞれに気づいたのかもしれない。ヒロキ君以外は誰も、まどかちゃんのことを話題にしなかった。
ヒロキ君だけは、しつこいほどまどかちゃんのことを心配した。
それで初めて、あたしはヒロキ君のまどかちゃんに対する気持ちに気づいた。けれどアキバさんには「もうみんなとっくに気づいてたよ」と言われてしまった。
◇
ある日の夕方、バイトから帰ると、これからバイトに出かけるところらしいヒロキ君と玄関で鉢合わせた。
「ただいま」
「おかえり」
サンダルを脱ぎ捨てリビングへ向かおうとするあたしの背中に、ヒロキ君が話し始める。
「あんな、今日まどかちゃんがマツダマートから帰ってきたときな、階段の前で顔合わせたんやけど、声かけられへんかった。言葉、出てこうへんかった。まどかちゃん、俯いたままオレの横通り過ぎて階段上ってった。なんて言ったらよかったんやろ」
ヒロキ君のTシャツから、なんくる荘で使っている洗濯用洗剤の清潔な匂いがした。
「今まではなんて言ってた?」
「え?」
「共用スペースで会ったとき。今まではなんて声かけてた?」
ヒロキ君は少し口を尖らせて視線を逸らし、しばらく黙りこんでいた。
「わからへん」
自分は無力だとでも言いたげだ。
「今までは当たり前に話しとったから。そんな、何話すとか、意識してへんかった」
「今だって、それでいいんだよ」
ヒロキ君以外のみんなも、口には出さないけれど、まどかちゃんのことを心配していた。ヒロキ君にだって、それはわかっていただろう。けれど、彼は何も言わないみんなに苛立っているようだった。
身近な人が弱っているとき、自分にできることはないだろうかと考えるものだ。あたしのような冷たい人間ですら、そう考える。
けれど自分にできることなんかなくて、無力さに愕然とする。愕然としたことで、「自分に何かできる」と信じていた自分の思い上がりに気づき、また愕然とする。
◇
まどかちゃんがひきこもっている間にまた一つ、台風が上陸した。
窓の外の暴風雨を眺めながら、洗濯機の回る音を聴く。
「なにしてんの」
洗濯機の前で座り込んでいるあたしに、ヒロキ君が言った。
「洗濯の音聴いてる」
「楽しい?」
「楽しくはないけど、いいよ。すごくいい」
ヒロキ君は立ち去らない。あたしに何か言いたいのだろう。やがて、ゆっくりと口を開いた。
「ミカコちゃんは、まどかちゃんと仲ええやん。心配やないの?」
大粒の雨が斜めに窓硝子にぶつかっては垂れていく。
「心配じゃない」
「なんで?」
「まどかちゃんは大丈夫だから」
彼女は強い。彼女には自力で立ち上がる力があるし、もしも立ち上がるのにあたしの手を借りたいなら、きっとそう言う。
「あたしは、まどかちゃんを信じてるよ」
洗濯機からずざーっと回転が止まった音がし、一拍遅れてピーと洗濯が終了したことを告げる電子音が鳴った。
「……オレは、信じてないんかな。まどかちゃんのこと」
「だとしても、それも悪いことじゃない」
洗濯物を取り出しながら、あたしは言った。
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