「ママ、助けを求められて嬉しかったんだから」

「助けて」

すれ違う人たちが立ち止まった、ような気がした。実際は誰にも聞かれていなかったと思う。

だけど、私自身がギョッとしていた。まさかこんな場所で、ひとりごとを言うなんて。

西新宿の、ビル街から駅へ向かう歩道橋。都心の夏のねっとりした空気が肌にまとわりつき、額に前髪がはりつく。

あ、泣く、と思った次の瞬間、涙がこぼれていた。

諦めがついた。もう一歩も歩けないと、ようやく認めることができた。

しゃくりあげながらスマートフォンを取り出し、ぼやける視界で母にLINEを打つ。

35にもなって親に助けを求めるなんて、なんて情けないんだろう。


ライターになって一年。無我夢中で駆け抜けて、書籍が発売された矢先のことだった。

年明けからずっと、追われるように仕事をしていた。ありがたいことに少しずつお仕事が増えたうえ、web連載の書籍化が決まり、そのための作業で忙しかった。

また、お金と夫婦関係のストレスも抱えていた。ただでさえ駆け出しのライターでお金がないのに、夫が働かない。貯金が尽きてからは、私が彼を養っていた。「はて、なぜ私だけが頑張っているのだろう?」と思うが、衝突が面倒で夫には言わなかった。

そんな日々が一年続いたある日、自分でも仰天するような火力で爆発し、それをきっかけに夫は働くようになった。ちょうどそのタイミングで書籍が発売され、私はPRのためますます忙しくなった。

その頃から、心身に異常を覚えた。

今まで難なくできていた作業の手順がわからない。ZIPファイルの解凍すらできなくなり、パニックになって、気づけばパソコンの前で「わからない、わからない」と泣いている。

メンタルの調子を崩しているのはあきらかだ。けれど調子のいい日もあるから、なんとか自分をだましだまし仕事を続けていた。

ある日、書籍の元となった連載の終了が決まった。

連載終了を知らせる担当編集者からのメールを、私は西新宿で読んだ。用事で人と会う直前だったのだ。

ひどく動揺し、頭が真っ白になった。汗ばむほど暑いのに、指先は冷たくなる。

それでも平静を装って用事をこなした。けれど、そのときに会った相手があからさまに(私を含む)他人をばかにする人で、邪気に当てられた。

その人と別れてすぐのことだ。私が、歩道橋で母に助けを求めたのは。

その夜、母から電話で「東京行きの航空券をとった」と告げられた。

いつもは「実家に帰ってきなさい」一点張りの母が、東京に来てくれるなんて。

驚きと、申し訳なさで居たたまれなくなる。私はなんて甘ったれているんだろう。親に助けを求められない人だってたくさんいるのに。

「助けに行くからね。ママが行くまで、待っててちょうだい」

母のこの、ヒーロー感。いつからそんなことを言う人になったのだろう。

「本当にいいの? お父さんは大丈夫?」

「いいのよ。パパもね、『かわいそうだから行ってやれ』って」

か、かわいそう……? いつから父はそんなことを言うようになったのだろう。信じられない。

こみ上げてくるものがあり、わっと泣き崩れた。

両親は昔、娘の弱さに理解のある人たちではなかった。

私が仲間はずれにされて泣いていると、母は「そんなことくらいで泣くんじゃない」と叱った。

学校に行こうとするとひどい吐き気がして、朝トイレでげえげえ吐いていると、父は「下手な芝居するな」と言った。

中二で学校に行けなくなってからは、家にも居場所がなかった。

特に母は、日によって私への態度が変わる。無視したり怒ったり、かと思えば、いきなり優しくなって抱きしめてきたり。「私の情緒不安定はあんた譲りじゃねえか」と思ったけれど、悔しいことに、抱きしめられるとたまらなく嬉しいのだった。

理解してくれないことを恨むとともに、私はいつも、両親に申し訳なさを感じていた。

私がこんな子じゃなければ、学校に行けていれば、ママもパパもこんなに悩まなくて済むのに。

ごめんなさい。


私が結婚して家を出てからというもの、両親はとても優しい。

ちょっとしたことで「えらい」と褒めてくれる。

ちょっとしたことで「疲れたね、休みなよ」と労ってくれる。

「頑張れない」と落ち込んでいると、「あなたは十分頑張ってるよ」と言ってくれる。あるいは、「頑張らなくても、そのままのあなたでも価値があるんだよ」と。

まるでTwitterでバズった、すべてを肯定してくれるコウテイペンギンのキャラクターのように、私を肯定してくれる。

本音を言えば、「20年前にそう言ってくれてたら……」と、思わなくもない。時代の流れに合わせて価値観を更新しただけでしょう? とも。

けれど、小さなキャリーケースを手にバスを降りる母を見て、そんな思いはどこかへ行った。

ありがたくて、申し訳なくて、たまらなく嬉しかった。

「お母さん、来てくれてありがとう。ごめんね」

「何言ってんの。ママ、助けを求められて嬉しかったんだから」

額に汗を浮かべ、母は笑う。本当に嬉しそうだ。

あぁ、助けを求めてもいいんだな。

ずっと迷惑かけてると思ってきたけど、今もそう思うけど、本当はそこまで謝らなくていいのかもしれない。

ありがとう、ありがとう、ありがとう。

涙腺がばかになっていて、また泣きそうになる。


私は両親に恩返しができるだろうか。

甘ったれな私が恩を返せるようになるのと、両親がこの世からいなくなるのと、いったいどちらが先だろう。間に合う気がしなくて途方に暮れる。そもそも恩返しが何かわからないし。

けれど、これだけは言える。

もし誰かが助けを求めていて、私が手を差し伸べたなら、両親はとても喜ぶ。

そしてきっと、私も嬉しい。

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