「ママ、助けを求められて嬉しかったんだから」
「助けて」
すれ違う人たちが立ち止まった、ような気がした。実際は誰にも聞かれていなかったと思う。
だけど、私自身がギョッとしていた。まさかこんな場所で、ひとりごとを言うなんて。
西新宿の、ビル街から駅へ向かう歩道橋。都心の夏のねっとりした空気が肌にまとわりつき、額に前髪がはりつく。
あ、泣く、と思った次の瞬間、涙がこぼれていた。
諦めがついた。もう一歩も歩けないと、ようやく認めることができた。
しゃくりあげながらスマートフォンを取り出し、ぼやける視界で母にLINEを打つ。
35にもなって親に助けを求めるなんて、なんて情けないんだろう。
◇
ライターになって一年。無我夢中で駆け抜けて、書籍が発売された矢先のことだった。
年明けからずっと、追われるように仕事をしていた。ありがたいことに少しずつお仕事が増えたうえ、web連載の書籍化が決まり、そのための作業で忙しかった。
また、お金と夫婦関係のストレスも抱えていた。ただでさえ駆け出しのライターでお金がないのに、夫が働かない。貯金が尽きてからは、私が彼を養っていた。「はて、なぜ私だけが頑張っているのだろう?」と思うが、衝突が面倒で夫には言わなかった。
そんな日々が一年続いたある日、自分でも仰天するような火力で爆発し、それをきっかけに夫は働くようになった。ちょうどそのタイミングで書籍が発売され、私はPRのためますます忙しくなった。
その頃から、心身に異常を覚えた。
今まで難なくできていた作業の手順がわからない。ZIPファイルの解凍すらできなくなり、パニックになって、気づけばパソコンの前で「わからない、わからない」と泣いている。
メンタルの調子を崩しているのはあきらかだ。けれど調子のいい日もあるから、なんとか自分をだましだまし仕事を続けていた。
ある日、書籍の元となった連載の終了が決まった。
連載終了を知らせる担当編集者からのメールを、私は西新宿で読んだ。用事で人と会う直前だったのだ。
ひどく動揺し、頭が真っ白になった。汗ばむほど暑いのに、指先は冷たくなる。
それでも平静を装って用事をこなした。けれど、そのときに会った相手があからさまに(私を含む)他人をばかにする人で、邪気に当てられた。
その人と別れてすぐのことだ。私が、歩道橋で母に助けを求めたのは。
◇
その夜、母から電話で「東京行きの航空券をとった」と告げられた。
いつもは「実家に帰ってきなさい」一点張りの母が、東京に来てくれるなんて。
驚きと、申し訳なさで居たたまれなくなる。私はなんて甘ったれているんだろう。親に助けを求められない人だってたくさんいるのに。
「助けに行くからね。ママが行くまで、待っててちょうだい」
母のこの、ヒーロー感。いつからそんなことを言う人になったのだろう。
「本当にいいの? お父さんは大丈夫?」
「いいのよ。パパもね、『かわいそうだから行ってやれ』って」
か、かわいそう……? いつから父はそんなことを言うようになったのだろう。信じられない。
こみ上げてくるものがあり、わっと泣き崩れた。
◇
両親は昔、娘の弱さに理解のある人たちではなかった。
私が仲間はずれにされて泣いていると、母は「そんなことくらいで泣くんじゃない」と叱った。
学校に行こうとするとひどい吐き気がして、朝トイレでげえげえ吐いていると、父は「下手な芝居するな」と言った。
中二で学校に行けなくなってからは、家にも居場所がなかった。
特に母は、日によって私への態度が変わる。無視したり怒ったり、かと思えば、いきなり優しくなって抱きしめてきたり。「私の情緒不安定はあんた譲りじゃねえか」と思ったけれど、悔しいことに、抱きしめられるとたまらなく嬉しいのだった。
理解してくれないことを恨むとともに、私はいつも、両親に申し訳なさを感じていた。
私がこんな子じゃなければ、学校に行けていれば、ママもパパもこんなに悩まなくて済むのに。
ごめんなさい。
◇
私が結婚して家を出てからというもの、両親はとても優しい。
ちょっとしたことで「えらい」と褒めてくれる。
ちょっとしたことで「疲れたね、休みなよ」と労ってくれる。
「頑張れない」と落ち込んでいると、「あなたは十分頑張ってるよ」と言ってくれる。あるいは、「頑張らなくても、そのままのあなたでも価値があるんだよ」と。
まるでTwitterでバズった、すべてを肯定してくれるコウテイペンギンのキャラクターのように、私を肯定してくれる。
本音を言えば、「20年前にそう言ってくれてたら……」と、思わなくもない。時代の流れに合わせて価値観を更新しただけでしょう? とも。
けれど、小さなキャリーケースを手にバスを降りる母を見て、そんな思いはどこかへ行った。
ありがたくて、申し訳なくて、たまらなく嬉しかった。
「お母さん、来てくれてありがとう。ごめんね」
「何言ってんの。ママ、助けを求められて嬉しかったんだから」
額に汗を浮かべ、母は笑う。本当に嬉しそうだ。
あぁ、助けを求めてもいいんだな。
ずっと迷惑かけてると思ってきたけど、今もそう思うけど、本当はそこまで謝らなくていいのかもしれない。
ありがとう、ありがとう、ありがとう。
涙腺がばかになっていて、また泣きそうになる。
私は両親に恩返しができるだろうか。
甘ったれな私が恩を返せるようになるのと、両親がこの世からいなくなるのと、いったいどちらが先だろう。間に合う気がしなくて途方に暮れる。そもそも恩返しが何かわからないし。
けれど、これだけは言える。
もし誰かが助けを求めていて、私が手を差し伸べたなら、両親はとても喜ぶ。
そしてきっと、私も嬉しい。
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