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映画レビュー『ファンタスティック・プラネット』

 この作品はステファン・ウルのSF小説『オム族がいっぱい』を原作として1973年に制作されたアニメ映画です。監督を務めたのはフランスのアニメーション作家ルネ・ラルーです。

 全体の印象として、アニメ作品という枠にとらわれない現代美術を鑑賞したように思えました。青い肌で人間より遥かに大きな体を持つドラーグ人の描写や惑星イガムに生息(?)している謎の動植物は写実からかけ離れており、奇怪な表現が見て取れます。さらに、そこに不安を煽る、電子音を中心とした音楽も相まって一つの芸術作品として完成されている印象を受けました。

 何を表現したかったかの考察を進めます。この作品は人類史そのものを描いており、ドラーグ人は自然の脅威、もしくはキリスト教的な裁きを与える存在だと自分は思いました。
 最初人類(オム族)はドラーグ族に対して成す術がなく、主人公のテールも母親を無慈悲に殺されています。自然や宗教的な権威に対して対抗できていない状態を表しているように思えました。
 中盤以降、テールはドラーグ人の学習器から多くの学問を吸収します。オム族にはこの段階では学問は根付いておらず、その中で唯一先進的な知識を持っていたことになります。これは各時代を次のフェーズに進めるような偉人と重なる部分があります。こういった一握りの先進的な人物によって人類が発展してきたということを表現したいのだと思います。ドラーグ人が「瞑想の邪魔をするな」と言っていたのは自然の破壊や宗教的権威の失墜を恐れているからであると思います。
 そしてテールはその学習器をオム族に持ち込んで人々に啓蒙を行います。最初は魔術師の反対など反知性的な運動も見受けられ、人類史において宗教と学問が対立構造にあったことを示唆しているような気がします。こういった啓蒙・近代化を経て最終的にはロケットを開発します。ここでオム族は「ドラーグ人の弱点を見つけた」わけですが、これがまさしく自然・宗教的権威の崩壊にあたります。
 最終的には「このままでは2つの種族はお互いを破壊しつくし、全滅する。和平を結び、ドラーグ族とオム族が共存する方法を見つけよう」といって争いは終結する。オム族はドラーグ族が用意した新しい人工衛星「テール」に移住することになった。ここは考察が難しいところでしたが、自然の脅威から完全に隔離されたこと、人類が自然に対抗する手段を得たことを著しているのかなと思いました。
 こういう描写が見られるので人類史を描いていると考察した次第です。

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