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映画レビュー『海の上のピアニスト』

 観た映画の感想とか情報をつらつらと書きます。私は(1900)T.D Lemonという名前のバンドでドラマーとして活動しているが、途中加入だったので、当初はこのバンド名の由来を全く知らなかった。(オシャレだなくらいに思ってた)
 由来を聞いたところこの映画の主人公から取ったとのことで、今回鑑賞するに至った次第。由来知ってから2年くらい経ったから見るの遅すぎるんですがね...

基本情報

 この作品は1998年制作のイタリア映画。イタリアの劇作家アレッサンドロ・バリッコが書いた朗読劇『海の上のピアニスト』を元にしており、『ニュー・シネマ・パラダイス』などを手掛けたジュゼッペ・トルナーレ監督によって映画化された。イタリア映画ではあるものの、全編英語なので比較的観やすい。(吹き替え版もある)

 作中の音楽はエンニオ・モリコーネが担当。ジュゼッペ・トルナーレ監督とは先ほど挙げた『ニュー・シネマ・パラダイス』でもタッグを組んでおり、映画ファンの間では根強い支持のある音楽家だそうだ。

 主人公は船の上で生まれ生涯一度も船を降りることなく亡くなった天才ピアニスト「ダニー・ブートマン・T・D・レモン・1900」であり、彼の奏でる音楽を通してその価値観を紐解くストーリーになっている。演じたのは『ロブ・ロイ/ロマンに生きた男』で助演男優賞を受賞しているティム・ロス。
 狂気の年代と呼ばれる1900年代の始まりに「1900」はアメリカとヨーロッパを行き来する船・ヴァージニアン号で生まれ、その中で生涯ピアニストとして活動した。
 その活動の中で一度だけ録音したレコードを、彼の親友でありヴァージニアン号で共に演奏家として雇われていたトランペット奏者のマックス・トゥーニーが楽器屋で発見した。その楽器屋の店主に対してマックスは「1900」との思い出を語るという回想形式の物語である。(そのため映画では現在と回想シーンを何度か往復する)

ストーリー

 ストーリーの概略は下記サイトからそのまま引用した。

終戦後に楽器屋で発見された1枚のレコード

 第二次世界大戦も終わった頃、トランペット吹きのマックス・トゥーニーは仕事で使っていたトランペットを楽器屋に売りに来ていた。マックスは楽器屋の店主に「もう一度だけトランペットを吹かせてくれ」と言ってトランペットを吹き始める。その店主はマックスの吹く曲と同じ曲がピアノで録音されたレコードを持ち出してプレイヤーにかける。その店主が豪華客船ヴァージニアン号から引き取ったピアノに隠されていた、割れたレコードを繋ぎ合わせていたのだ。そのレコードを聞いたマックスは「このレコードは世界に1枚しかない」と話すと、店主はそのピアニストについて興味を示す。マックスはそのピアニストの話を始めた。

「1900」の誕生

 時代は遡って1900年。アメリカとヨーロッパを定期運航する豪華客船ヴァージニアン号で機関士をやっているダニー・ブートマンは、客が降りた船内で置き去りにされた赤ん坊を見つける。ダニーと同じく機関士をやっているメキシコ人の男に名前を聞かれたダニーはその赤ん坊に当時の西暦である「1900」と名付ける。孤児院に送られるのは可哀そうだと考えたダニーは「1900」を船内で大切に育て続けるのだった。

ダニーの死と「1900」のピアノの才能

 「1900」が8歳になった時、ダニーは船内の機関士としての仕事中、機材が頭部を直撃する事故により死んでしまう。ひとりぼっちになった「1900」は、船内のダンスホールで軽快なメロディに合わせて大人たちが踊っている様子を見ていた。ダンスホールでパーティが終わった深夜、「1900」は誰から教わることもなくピアノの演奏を始めると、そのメロディに呼び寄せられるように乗客らがピアノの周りに集まって来る。その演奏を聞いた女性が感動して涙を流していたほどの才能だった。

マックスと「1900」の出会い

 1927年。映画の冒頭、楽器屋にトランペットを売りに来ていたマックスは、この年、ヴァージニアン号内でトランペット吹きの仕事を得ていた。マックスは船酔いしていると「1900」に声をかけられ、ダンスホールにあるピアノの席の横に座らされる。彼の演奏に魅せられたマックスはすっかり船酔いも醒めることになる。そこから仲良くなった2人は、他にも雇われていたバンドメンバーとともに船内のダンスホールで演奏する日々を送っていた。「1900」のピアノ演奏はたちまち船内で人気となり、乗客は「1900」の演奏を聞くために彼のピアノを取り囲むこともあった。ある日の晩、イタリアからアメリカへ移民する1人の農夫が「1900」の演奏する曲につられて彼のピアノのところへやって来る。その農夫はたった1人生き残った娘のために、生き方を変えるべくアメリカに行くのだと移民の理由を明かすのだった。

ピアノの決闘

 ヴァージニアン号内での「1900」の評判はアメリカ内にも広まり、ジャズを発明したと言われる男ジェリー・ロール・モートンが「1900」にピアノの決闘を挑みに船へ乗り込んでくる。多くの乗客が見守る中、ピアノの決闘は両者が交互に演奏する形で行われる。まずはジェリーがピアノを演奏し、乗客から大きな拍手を得る。何を演奏しようか迷った「1900」は自分の曲ではない「きよしこの夜」を演奏する。再びジェリーがピアノを演奏すると再び観客から大きな拍手を得る。「1900」は先程ジェリーが演奏した曲と同じ曲をそっくりそのまま演奏すると、乗客からブーイングを浴びてしまう。そして最後のターンでもジェリーは演奏後に大きな拍手を得る。後がなくなった「1900」は今まで披露してこなかったテンポの速い曲を熱心に演奏する。演奏を終えると、圧倒された会場内は沈黙に包まれるが、1人が拍手を始めると続けて他の乗客らも割れんばかりの拍手を送り、ピアノによる決闘は「1900」に軍配が上がるのだった。

レコードの録音とある少女との出会い

 ヨーロッパからアメリカに向かうヴァージニアン号に、「1900」の人気を知ったレコード会社が「1900」の演奏する曲を録音するために船内にやって来る。「1900」はピアノを演奏していると、窓の外にいる乗客の少女に一目惚れする。その少女を想って演奏した「1900」は、その曲が録音されたレコードを「僕の音楽だ」と言って持ち去る。「1900」は雨が降る甲板で、その少女が1人になるタイミングを見計らい、レコードをプレゼントしようと近づくがあと一歩踏み出す勇気を持てずにいた。ついにヴァージニアン号がニューヨークに到着すると、彼女は船を降りようとしていた。「1900」は彼女に声をかけることはできたが、人混みの中彼女に追いつくことができなくなりレコードは結局渡すことができなかった。ただ、彼女からは「いつか訪ねてきて」と住所を教えてもらう。その後、悲しみに暮れる「1900」は彼女に渡せなかったレコードを割ってゴミ箱に捨ててしまう。

船を降りる決意

 ヴァージニアン号の中で生活してきた「1900」だったが、住所を教えてくれた少女に会いに行くために船を降りる決意をする。マックスや船長らが見守る中、「1900」はタラップを降りていたが、ふと立ち止まって船に引き返してきてしまう。「1900」は船に引き返した理由を周囲に語ることなく、しばらくするとまた今まで通りの生活に戻っていった。しかし、時が経つと第二次世界大戦も近づき、親友のマックスはヴァージニアン号での仕事に終止符を打つことになり、「1900」とマックスも疎遠になってしまう。

ヴァージニアン号の爆破

 時は現在に戻る。楽器屋の店主からヴァージニアン号が爆破によって取り壊されることを知ったマックスは、港長に無理を言って爆破前のヴァージニアン号に乗り込み「1900」を探す。「1900」を発見したマックスは、「一緒に船から降りよう」と説得を試みる。そこで「1900」はかつて船から降りようとしてまた船に引き返した理由をマックスに語り始める。「1900」が降り立とうとしたニューヨークは彼にとってあまりにも大きすぎた。彼がいつも弾いている鍵盤の数は88と限りがあるが、その大きな町ニューヨークには家も通りも数に限りがなく、どれを選んでいいか分からない。この船を降りることはできない。人生を降りるほかないと語る。「1900」が船から降りられない理由を聞いたマックスは涙を流し、「1900」と抱擁を交わした後、1人ヴァージニアン号を降りる。「1900」が乗ったままのヴァージニアン号が爆破された後、マックスは楽器屋に戻ってきた。「1900」の演奏を高く評価していたマックスは割れたレコードをピアノに隠したのは自分だと店主に話す。マックスが店を去ろうとすると店主は呼び止める。親友も仕事もなくした悲しみに暮れるマックスに店主は笑顔で「良い話を聞くことができた」と言って彼の唯一の商売道具であるトランペットを返す。店から出たマックスを店主は見送った。

考察

ジェリー・ロール・モートンとの決闘

ジャズの生みの親と称されるピアニストとの決闘。流れとしては

  1. ジェリー・モートンが聴衆に絶賛されるピアノを弾いた後、「1900」は『きよしこの夜』を弾いた。

  2. 「1900」がジェリー・モートンの弾いた曲を即興でコピーした。

  3. ジェリー・モートンはギアを上げたが、「1900」はそれを上回る技巧で圧倒し勝利した。

となります。この流れと二人の表情変化から「1900」の音楽観を垣間見ることができる。
 そもそも「1900」は音楽を物語を描くように演奏します。宴会で演奏するシーンではマックスに対して乗客のストーリーを想像して聞かせる様子が描かれており、またレコードを録音するシーンでも窓の外に佇む娘を見ながら演奏していました。その人物のストーリーを鍵盤上で表現するのが「1900」の音楽であって、決して技巧や煌びやかさを重視するものではありませんでした。彼は確かにピアノの天才であり技術もかなり高いですが、彼の音楽はそこに重点が置かれているわけではありません。

 これを踏まえると、2のシーンでジェリー・モートンの曲をコピーしたのは彼の曲が単純に素晴らしいと感じ対決そっちのけで音楽にのめり込んでいたことの表れであり、「1900」の行動は筋が通っていると思えます。同時に、ジェリー・モートンは自分の曲をコピーされたことに焦りの表情を浮かべはじめ、次の曲は技巧を見せつけるような演奏をします。
これは純粋に音楽として対決を楽しんでいた「1900」からすればこの行動は音楽を侮辱したも同然であって、それで最後の超絶技巧演奏につながるのだと思います。

 このシーンは「1900」のピアノの技術を示す場所であるというよりは彼の音楽に対する姿勢を示唆するシーンであると言えそうです。

農夫とその娘、船を降りる理由

 「1900」が船を降りようとするシーンがありますが、ここに至る理由となったのが農夫とその娘との出会いである。

陸から海を眺めて、海の声を聞き、人生の決断した

人生は無限だ。無限だと。俺は決心した。生き方を変えようと。

農夫の男は船で「1900」に対して上のように語った。ここで大事になってくるのが「人生は無限だ」という言葉が「1900」の人生とどのような対比になっているかです。
 「1900」は最後の語りのシーンで以下のような言葉を残しています。

ピアノは違う。鍵盤は端から始まり端で終わる。鍵盤の数は88と決まっている。無限ではない。弾く人間が無限なのだ。人間の奏でる音楽が無限。そこがいい。無限の鍵盤で人間が引ける音楽はない。ピアノが違う。神のピアノだ。

要するに彼のいる「船」という世界は有限であって、外の無限の世界でどのような音楽を奏でられるかのイメージが農夫と出会った時は想像出来ていなかったことになります。それでも外に踏み出す契機としては十分であったでしょう。ここに農夫の娘との出会いが外への思いを加速させます。

 娘と出会った「1900」が何を思ったのか。大きく分けて2つあると感じました。

  • 娘と出会ったことで「誰かの物語」ではなく「自分の物語」を見出し、船という有限の世界では完結しないことを悟った。

  • 「人生は無限だ」と言って生き方を変えようとした農夫に会って「自分がどう生きるべきか」のヒントを得たかった。

 美しい娘に対してキスをするシーンがあるように、少なくとも「1900」がこの娘と自分の物語に何かしらの接点を持たせたい欲に駆られたことは間違いないでしょう。単純に言えば恋ですね。いままで他人の物語を音楽としてきた彼にとって、自分を中心にした物語から音楽を作ることは初めてのこと
だったのかもしれません。もしかすると、あのレコードに録音していた音楽は既に自分の物語だったのか…?と思いました。
 その上で、ずっと頭に残っていた農夫の娘であったため、船を降りるには十分理由が揃ったわけです。

 船を降りる理由が単純に恋なのではなく、自分の音楽の行きつく先を判断したいという、どこまでも彼らしい理由で船を降りようとしたのだと思いました。

「1900」にとって音楽とは

 やはり基本的には彼が語るシーンを読み解くのが一番良いでしょう。

ぼくを踏み留まらせたのは、ぼくの目に映ったものではなかった
それはぼくの目に映らなかったもの。
わかるかい、友よ? 目に映らなかったもの……探してみたけれど、どうしても見つからなかった。あの果てしなく巨大な町並みの中に、ないものはなかった。ぼくの探しているもの以外はなんでもあった。
だけど、境界線だけは、なかったんだ。

鍵盤上で奏でられる音楽も無限、鍵盤は八十八キーだけ。でも、それを弾く人間のほうは無限。こういうのが好きなんだ。これなら安心だ。

何憶何十億というキーがどこまでも続く巨大な鍵盤、これが僕の見たものさ。無限の鍵盤、無限の鍵盤なら、さて、そんな鍵盤の上で人間が弾ける音楽なんて、あるもんか。間違った椅子に座っちまったってことさ。そいつは神さまが弾くピアノだよ。

 陸地というのは、ぼくには大きすぎる船、長すぎるたび、美しすぎる女、強すぎる香水。ぼくには弾くことのできない音楽。許してくれ。ぼくは船を降りない。

恐ろしいと思ったことはないか、君たちは?そのことを、その果てしのなさを想うだけで、ただ思うだけで自分がバラバラになっていくという不安に駆られたことはないのかい?

 ここまでの考察からも、セリフからも分かるように、彼は「目に見えないもの」をとらえ、それを切り取って有限の世界を作り出し、そこに音楽をつけることで自分のピアノにしていた。曲を作るにも、物語を書くにもそうだが、ある程度描く範囲を決めないと全体が曖昧模糊になってしまい、結局何を表現したいのか分からなくなる。彼はタラップからニューヨークの街を見渡した時、瞬時に無限性を感じ「自分はここで音楽を作れない」と思ってしまったのだろう。

ヴァージニアン号の位置付けと爆破

 ヴァージニアン号は彼が切り取る物語、そして人生の有限性を象徴している。船で生まれ、一度も降りることなくその生涯を閉じた彼の音楽と同じように乗客の人生を切り取り、新天地へ期待に胸を膨らませて降りていく人には干渉しない。夢という人生の一部を切り取り、それらを乗せて航行し、それ以上の物語に関与しない有限性を持つヴァージニアン号の機能は、彼の音楽観そのものである。
 そしてそのヴァージニアン号の爆破はそのまま「1900」の音楽の有限性、言い換えれば限界、儚さに直結する。彼が作り出し彼の中で完結するのが彼の音楽であり、そこを離れたらそれは別物だ。レコードを頑なに渡そうとしなかったシーンからもそれは読み取れる。

マックスの立ち位置と映画の構成

 この映画は言わずもがな「1900」を主人公としたものであり、その内面を映し出すこと、またはその映し出し方が非常に重要になるが、回想録形式をとっているこの作品では直接的に「1900」の心情を知り得るような手段に乏しくなっている。幼少期以外では、それらは常に親友であるマックスの視点から語られる。描写されるイベントの大半がマックス視点で描かれ、さらにティム・ロスの「心ここに在らず」の演技によってま詳細な心像はほとんど描かれない。
 しかし、ヴァージニアン号爆破前の対話シーンでは「1900」が心情を吐露している。ここに至るまでほとんど描かれなかった心情を最後に本人に語らせることで回収しているのだ。主人公に多くを語らせない回想録形式だからこそ、最後の言葉の重みが弥増すことになる。
 マックスの役割は当然語り手であるが、「1900」の最後の言葉を引き出せるほどに長い時間を過ごした親友としての役割が一番大きいと感じた。「1900」とその他聴衆を繋ぐのは、音を直接録音するレコードではなく同じ音楽を奏で続けたマックスであった。

総括

 個人的に大満足の映画でした。数奇で奇妙な出自を持つ天才ピアニストの耽美的な姿勢から生み出される音楽と、その人生の儚さを存分に堪能できるストーリーも良いし、作品の表現・構成もかなり筋が通っていて見やすかったです。また別の映画を見たら感想書こうと思います。点数をつけるなら85/100ですかね。(評論書くの初めてなのでかなりざっくりです)


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