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冷戦の激化と経済復興


朝鮮戦争と軍拡競争

朝鮮戦争(1950~)

→北朝鮮軍のソウル占領。戦争の開始。
国連軍出動
アメリカ軍主体。元々ソ連は、安保理の五大国の中国が大陸中国(中華人民共和国)ではなく台湾(中華民国)であることに対し、反抗して安保理を欠席していた。その隙を狙いアメリカは、ソ連は自ら欠席しているのだと言って、安保理で国連軍の派遣を決定した。
 これによって北朝鮮軍を中国国境まで追い込む。
●中華人民共和国、人民義勇軍派遣
→北朝鮮を支援。実質正規軍だが、それだとアメリカと戦争をすることになるため、"義勇軍"と名前を付けて「北朝鮮を支援するためにあつまったボランティア」の形をとった。
朝鮮休戦協定(1953)
→暫定的な軍事境界線(北緯38度線)。アメリカと中国の参戦で膠着状態になった。

このようにして、ソ連とアメリカが直接戦争していないものの冷戦下で軍事衝突があった。

アメリカの「巻き返し政策」

→ソ連を中心とした共産圏の攻勢に対して積極的に反撃し、共産圏諸国の開放をめざすことを掲げた。

アイゼンハワー大統領(任1953~61)
→ソ連を潰すために世界の国々と軍事同盟を結ぶ。

ドワイト・D・アイゼンハワー

マッカーシズム(赤狩り)の流行(1950年代初頭)
共産主義あるいはその同調者に対する取り締まり運動。マッカーシーは摘発運動を展開したが、その強硬な手段は次第に不信感を増殖させ、54年にその告発の根拠は無かったとして調査委員会委員長の地位を解任され、数年後にアル中で死亡した。

マッカーシー

◎各地に成立した反共軍事同盟
日米安全保障条約(1951.9)
●米韓相互防衛条約(1953.10)
●米華相互防衛条約(1954.12)

●太平洋安全保障条約(ANZUS,1951.9)
●東南アジア条約機構(SEATO,1954.9)
●中東条約機構(バグダード条約機構、METO,1955.2)
●アメリカ州機構(米州機構、OAS,1948.4)
→これによって東欧、アフリカ以外の地域を西側陣営に引き込んでいった。アフリカはこの時まだヨーロッパ列強の植民地

核開発と平和運動

各国の核保有

原子爆弾
→ウランやプルトニウムの核分裂を利用して作る大量破壊兵器。アメリカが初めて核実験に成功し、広島と長崎に投下。

◎各国の核保有
●アメリカの核実験 1945年
●ソ連の核実験 1949年
→アメリカは水素爆弾の実験にも成功、それにソ連も猛追する形をとる。

●イギリスの核実験 1952年
●フランスの核実験 1960年
●中国の核実験 1964年
インドの核実験 1974年
パキスタンの核実験 1998年
→インドとパキスタンはカシミール問題で仲が悪かった。さらに、核を持つことによって発言力が増すなど、危険な情勢になっていった

核兵器の廃絶に向けて

ビキニ水爆実験
→アメリカが中部太平洋で核実験実施。「死の灰」によって周辺住民が被曝。
第五福竜丸事件
→日本のマグロ漁船の乗組員が「死の灰」を浴び被曝。

水爆は核爆弾と異なり核融合による爆弾であるため、エネルギーは数百倍ともいわれる。実戦で投入されたことはない。

原水爆禁止運動
→東京都杉並区の主婦の運動から始まり世界的運動に発展。

ラッセル・アインシュタイン宣言(1955.4)
→核兵器・核戦争の危険性を訴えた宣言。バートランド=ラッセルが核廃絶を訴えるために核兵器開発の中心的役割を担ったアインシュタインを誘った。
パグウォッシュ会議(カナダ)
→科学者による核兵器禁止運動。科学と国際問題について協議。

ヨーロッパ諸国の経済統合

経済的な「第三の巨人」

ロベルト・シューマン(任1948~1952)
→「ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体」構想を提唱し、ヨーロッパの統合に道筋を付けた人物。シューマン=プランと呼ばれる。(同名の音楽家がいる)

ヨーロッパ共同体(EC,1967)
●中心国
フランス・西ドイツ・イタリア・ベネルクス三国
ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC,1952)
→フランス・西ドイツなどで石炭・鉄鋼を共同管理するもの。
 フランス側としては、ドイツとの経済紛争の火種となるルール地方とザール地方の炭田地帯を国際管理下におくことが目的であった。フランスは西ドイツに対する潜在的な恐怖心を持っていたが、軍事力の基盤となる石炭と鉄鋼を共同でコントロールすることによって西ドイツの行動(再軍備)を拘束する方針に傾いた。
 また西ドイツのアデナウアーは対フランス和解によって再軍備が可能になると考えた。発表の翌月、朝鮮戦争が勃発、東側の軍事侵攻を現実のもとして警戒することに迫られたフランス・西ドイツは提携を急ぐこととなった。 
 またフランスと西ドイツが原料供給で統合することは、イギリスにとって脅威となるので、イギリスはこの構想には反対した。

ヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)
ヨーロッパ経済共同体(EEC)
→この二つがローマ条約(1957)により成立。

ヨーロッパ自由貿易連合(EFTA,1959)
→ECSC,EEC,EURATOMに対抗してイギリス主導で発足した工業製品の共同市場。イギリス、ノルウェー、デンマーク、スウェーデン、スイス、オーストリア、ポルトガルの7ヵ国。域内の関税を毎年20%ずつ引き下げて5年間で全廃することを予定した。

最終的にこれらはヨーロッパ共同体(EC,1967)に統合された。

◎拡大EC
1970年代:イギリス・アイルランド・デンマーク
1980年代:ギリシア・スペイン・ポルトガル

フランスの独自路線

第五共和制(1958~現在)
→アメリカやイギリスに追随せず独自路線を走れるフランスにしていくことが目的。第四共和政では議会重視だったが、今回は大統領に力を集め、フランスを立て直していく

アルジェリア問題
1948年にフランス植民地のアルジェリアで民族解放戦線(FLN)が結成され、1954年に独立を求めて武装蜂起。国内の第四共和政政府は独立容認に傾いたが、現地のフランス人入植者と現地軍は反発しより強力な指導力を持つ政府の出現を望むようになった。

ド=ゴール大統領(1958~69)
→一部の右翼勢力が本国政府に反旗を翻してアルジェ政庁を占領し、ド=ゴールを首班とする政府の樹立を要求するという事件が起こった。第四共和政の下で対立を繰り返していた諸政党は対応するすべが無く、ド=ゴールの登場を要請、ド=ゴールは首相に就任、挙国一致内閣を組織し、アルジェの反乱軍には統治権を認めて事態を収拾した。

シャルル=ド=ゴール

●アルジェリア独立を承認(1962)
中華人民共和国の承認
→ベトナム戦争に踏み切ったアメリカ(ジョンソン大統領)を牽制する意味。アメリカはフランスの動きを反米的行為として非難し、米仏関係は悪化した。
●核実験の成功(1960)
NATO軍事機構脱退
→アメリカ主導に反発。同等の権利を主張し脱退。

五月危機(五月革命)(1968.5)
→強硬路線に不信感を持った学生・労働者・市民らによる大規模な反ド=ゴール運動。経済の発展は次第に社会に格差を生み出し、また経済優先の風潮が青年層の閉塞感を強めていた。
カルチェ=ラタン
→パリ市内の学生街。警官隊と衝突した。カルチエ=ラタンにはバリケードが築かれ「解放区」が出現、政府は共和国保安隊を出動させて鎮圧にあたった。多くのけが人が出る中、労働者・市民が学生を支援するデモを行い、混迷は5月末まで続いた。
6月に行われた総選挙は暴動への反動からド=ゴール派が圧勝し、危機は去ったが、その後憲法改正案を国民投票で否決(=政治的な敗北)され、翌年に辞任した。

日本の成長と冷戦の転機

ソ連の歩み寄りと雪解け

フルシチョフ書記長(任1953~1964)
→スターリンの死後(1953)にソ連の指導者に。
スターリン批判(1956)
→ソ連共産党第20回大会でそれまでのソ連共産党の公式見解である戦争不可避論(資本主義陣営との戦争は避けられないとする考え)を批判して、西側との平和共存路線への転換をはかり、また暴力的手段によるのではなく議会制度を通して平和的に社会主義への移行することが可能であることを呼びかけた。そこでは大量テロル(粛清)批判やスターリンの政治能力についても言及された。

フルシチョフ

雪解け
ジュネーヴ4巨頭会談(1955)
→アメリカ・ソ連・イギリス・フランスの首脳が平和共存を確認。ソ連と西ドイツの国交回復。しかし、翌1956年、ハンガリー反ソ暴動をソ連が軍事介入して鎮圧したことなどから、再び緊張が高まり、米ソは再び核兵器開発を進めることとなった。
コミンフォルム解散
フルシチョフ訪米(1959.9)
→平和に首脳会談は終了。同月、中国を訪問。スターリン批判以来中国とは対立しており和解を目指したが決裂

ソ連支配に対する民主化運動

→東ヨーロッパの社会主義国では従来のスターリン体制に対する反発がこれを機に爆発し一連の東欧社会主義圏での自由化要求が強まった。

ポーランド反政府反ソ暴動(ポズナニ暴動、1956.6)
ゴムウカ(任1956~1970)
→暴動によってソ連の軍隊が来ることを警戒。国民をなだめるために、ポーランドの自主路線を約束して事態収束。

ハンガリー反ソ暴動(ハンガリー事件、1956.10)
ナジ=イムレ(任1953~1955,1956)が首相に復帰。
→ソ連の軍事介入により失敗。

 ソ連はポーランドではゴムウカ政権に一定の自治を認めたがワルシャワ条約機構からの離脱や自由化を認めず、ハンガリーでは暴動をソ連軍を派遣して鎮圧し、ナジ政権を排除し親ソ政権を樹立した。その他の東欧諸国でもスターリン派は排除されたが、自由化やソ連圏からの離脱は実現しなかった

日本の経済成長

朝鮮特需
→米軍の必需品を日本が生産・輸出することで経済復興した。
日ソ国交回復(1956)
→日本は国連に加盟。
高度経済成長期(1950年代以降)

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