見出し画像

ヴェルサイユ体制とワシントン体制

大戦後の国際秩序

パリ講和会議(1919)

連合国(戦勝国)が参加、敗戦国とソヴィエト=ロシアは招かれず

◎会議の中心人物
ウッドロー=ウィルソン (米)
十四力条の平和原則に基づく理想主義的な主張。民族自決、国際連盟の設立などが盛り込まれる。
ロイド=ジョージ(英)
→戦前の国際的地位への復帰を目指す
クレマンソー(仏)
→独に対する厳しい制裁と徹底的な弱体化を主張

ウッドロー=ウィルソン

ヴェルサイユ条約(1919)

◎割譲地 : 海外植民地は全て喪失
アルザス、ロレーヌをフランスへ
ポーランド回廊をポーランドへ

ラインラント非武装
→ライン川流域一帯。独・仏の国境線

◎国際連盟の管理下
ザール地方 : 炭田地方
ダンツィヒ : 自由市

◎ドイツの軍備制限
●賠償 : 総額や支払い方法は未決定
→後に、 総額1320億金マルクと正式決定。日本円で200兆円ほど。

国際連盟の発足

敗戦国の処理

ドイツ以外の敗戦国の処分

敗戦国との講和条約
●サン=ジェルマン条約・・・対オーストリア
●ヌイイ条約・・・対ブルガリア
●トリアノン条約・・・対ハンガリー
●セーヴル条約・・・対トルコ(旧オスマン帝国)

◎東ヨーロッパ諸国の独立
→ウィルソンの民族自決原則による
●エストニア・ラトヴィア・リトアニア
●ポーランド
●フィンランド
●ハンガリー
●チェコスロヴァキア
●セルブ=クロアート=スロヴェーン王国
→これらの国を独立させることで、社会主義国家のソ連に対する壁を作った。

第一次世界大戦後の西アジア情勢

アラビア独立
→オスマン帝国領
ヒジャーズ王国の成立
→メッカの首長フセインが建国。フセイン=マクマホン協定により建国。しかし、イギリスは協定を守る気がないので、これを潰しにかかる。
イブン=サウードに征服される
→ サウジアラビア王国の成立

◎委任統治
●イギリスの管理
イラク・パレスチナ・トランスヨルダン
●フランスの管理
オスマン帝国・シリア・レバノン
この地域を好き勝手に統治したことで後々の紛争の火種になる。

国際秩序の維持

国際連盟

◎本部:ジュネーヴ
総会
→連盟の最高議決機関

理事会
〔常任理事国〕 イギリス・フランス・イタリア・日本
〔非常任理事国〕 総会で選出された4カ国

国際労働機関(ILO)
→労働問題の調整機関として、勧告や調停を担当。社会主義の台頭を恐れた

連盟の欠点
●アメリカ、 国際連盟不参加
●脱退参加の自由
●全会一致の原則
→全加盟国1国1票による全会一致。各国の利害関係で機能せず。
●制裁規定の欠落
→連盟の勧告を無視した国家に対しての制裁規定なし。

ワシントン会議(1921~22)

→東アジアの秩序を維持しつつ日本の台頭を抑圧したかった。

四カ国条約
→太平洋域の領土と権益の相互尊重。日英同盟解消。
 第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約では、太平洋のいわゆる南洋諸島(マリアナ諸島、カロリング諸島、パラオ諸島、マーシャル諸島など赤道以北の島々)は、日本の委任統治とされたが、それは日本の直接統治にアメリカが反対したからであった。太平洋にアメリカが進出していくと、日本との衝突が予想され、その際にはイギリスと日本が同盟関係にあることはアメリカにとって警戒しなければならなくなる。そのため、日本の海軍の軍拡をおさえるとともに、太平洋地域で衝突する場合に備える必要から、アメリカが日・米・英・仏間の現状維持と日英同盟破棄を強く迫った。

 そこで、太平洋上の各国の植民地・委任統治など諸領地に関しては現状維持とし、紛争があった場合は共同会議で調整するなどを規定し、同時に第4条で日英同盟の終了を宣言した。

 アメリカの狙いは第一に、アメリカの主導によって、日本の太平洋方面、特にフィリピンへの侵出をさせないこと、第二に日英同盟を破棄させることであった。第一次世界大戦後のパリ講和会議で日本が南太平洋の赤道以北のドイツ領諸島を委任統治とすることが認められたことは、ハワイとフィリピンの間に日本が割り込む形となり、アメリカにとって脅威と感じられたのである。

九カ国条約
→中国の主権独立の尊重。二十一カ条要求の実質失効

 中国の主権尊重・領土保全と、門戸開放・機会均等を確認し、日本の二十一カ条の要求で得た山東省の旧ドイツ権益の返還などを決めた。9カ国とは日本・イギリス・アメリカ・フランス・イタリア・ベルギー・オランダ・ポルトガル・中国。中国が参加していることに留意しよう

ワシントン海軍軍備制限条約
主力艦の保有比率
米:英:日:伊:仏= 5:5:3:1.67: 1.67

→日本では軍部の反対が根強く、戦時体制が強まる中、1934年12月に破棄した。

国際協調主義に向けて

ヨーロッパの秩序

ロカルノ条約 (1925)
→西ヨーロッパの安全保障を目的。ドイツの国際連盟加入のために独外相シュトレーゼマンが尽力。

→イギリス・フランス・ドイツなどヨーロッパ7ヵ国が締結した地域的集団安全保障条約。第一次世界大戦後の懸案であったフランス・ベルギーとドイツの間の国境地帯(ラインラント)の不可侵などを定め、翌年、条約発効条件としたドイツの国際連盟加盟が実現した。この国際協調によって実現した集団安全保障体制をロカルノ体制という。しかし体制に加えられなかったソ連は反発した。1929年の世界恐慌以降、ドイツに反ロカルノ体制を掲げるナチスの勢力が台頭、1936年2月、ヒトラー政権はロカルノ条約を破棄、ラインラントに進駐、ロカルノ体制は崩壊した。

 ロカルノ体制は、国際連盟が十分な平和維持機能を持っていなかったヴェルサイユ体制のもとで、アジア・太平洋地域おけるワシントン体制とともに、重要な国際秩序維持のしくみであった。また、国境問題を含み、関係諸国が地域的な集団安全保障を具体的に構築した最初の試みとして重要であり、それは第一次世界大戦の原因となった集団的自衛権を掲げた各国が軍事同盟を結ぶことによって勢力均衡を図るという国際政治理念に代わる、新たな理念が具現化されたという意味があった。

不戦条約(1928)
米国務長官 : ケロッグ
仏外相:ブリアン
→「国際紛争の解決は武力によらない」
 特に国際連盟には不参加だったアメリカとソ連も参加したので、平和維持に大きな期待が寄せられた。

 しかし、アメリカは条約締結に当たり、重大な条件を付帯させた。それは、この条約は「いかなる点においても自衛権の制限もしくは毀損を意味してはいない。この権利は、各主権国家に固有のものであり、あらゆる条約に事実上含まれている。」と表明し、自衛のための戦争は可能であるという道を残したことである。また不戦条約には「侵略」をどこが認定するのか規定が無く、「違反に対する制裁」についても触れられていなかったため、理念的規範にすぎないと考えられ、結局、第二次世界大戦の勃発を防げなかった。

 日本は条約第1条に「人民の名において」とあることを「国体に反する」として保守派の枢密院が反対したので、田中義一内閣はこの一句は日本には適用されないと言う留保条件を付けて、翌年ようやく批准した。しかし、この条約に拘束され、中国侵略を自衛のための行動であるとして、「満州事変」や「日華事変」というように戦争行為を「事変」と強弁せざるを得なかった。

第1条 締約国は、国際紛争解決のために戦争に訴えることを非難し、かつ、その相互の関係において国家政策の手段として戦争を放棄することを、その各々の人民の名において厳粛に宣言する。
第2条 締約国は、相互間に発生する紛争又は衝突の処理又は解決を、その性質または原因の如何を問わず、平和的手段以外で求めないことを約束する。

パリ不戦条約

ロンドン軍縮会議 (1930)
補助艦の保有比率
米: 英: 日 = 10:10:7弱

ドイツ賠償金問題

ルール占領 (1923)
→フランスとベルギーがルール工業地帯を占領。ドイツは 「消極的抵抗」し労働者にボイコットを命じた。大工業地帯の生産停止状態により、インフレーション激化。フランス・ドイツが共倒れに。

ドーズ案
→アメリカ資本の導入によりドイツの戦後復興を図るもの。フランス、 ルールより撤兵。
ヤング案
→賠償総額を減額

フーヴァー=モラトリアム
各国の賠償支払い、 対米戦債支払いを1ヵ年停止。 
 1931年、アメリカ合衆国のフーヴァー大統領(共和党)が、世界恐慌のさなか、恐慌対策として打ち出した経済政策。モラトリアムとは支払い猶予、義務免除の意味で、第一次世界大戦で発生した、賠償金や戦争債権の支払い義務を1年間延期するというもの。直接的にはドイツの対イギリス・フランスに対する賠償金支払い、アメリカに対する負債の支払いを猶予するというもので、世界恐慌が波及したドイツ経済を賠償問題を緩和することで救済し、恐慌の世界拡大を阻止しようとしたもの。しかし実施時期が遅すぎ、すでに恐慌は世界に波及してしまっていたので、効果はなかった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?