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古代ローマ世界

共和政の確立

ローマの建国(前8世紀)

ラテン人
→古代イタリア人の一派。ティベルの畔に建国

エトルリア人
→ローマを一時支配(前7世紀)。北方から侵入。

◎ローマの建国伝説
→オオカミに育てられたロムルスレムスが作ったとされる

民衆の政治参加の流れ

貴族政治(前6世紀ごろ)
→エトルリア人をどかして権力を持ったのが貴族。
元老院(最高機関)
→任期終身のパトリキ(貴族)で構成
コンスル(執政官,統領)
→元老院のまとめ役。最高政務官で任期1年、2人で構成。
ディクタトル(独裁官)
→非常時の臨時職。元老院で悠長に話し合っていられないときにコンスルのどちらかが就任する(ことが多い)。

民会
→全成人男性市民が参加。そのため平民も貴族もいる。元老院の承認を経ると国法化される。しかし、結局平民の意見は通らず不満が蓄積

プレブス(平民)の不満
→中小土地所有農民と商工業者で構成。重装歩兵部隊を形成し戦争に参加していたので、参政権を要求していた。

◎平民の権利を守る機関
護民官(2名)
→平民保護の役割。拒否権を保有
平民会(平民のみで構成)
→ここで決まったことを護民官が貴族に伝える。次第に平民の権利が認められるように。

立法

十二表法(前5世紀)
→旧来の慣習法を成分化

リキニウス・セクスティウス法
コンスルの1名を平民から選出することを決めた。さらに大土地所有の制限を定める。

ホルテンシウス法(前287)
→ディクタトルになった平民。平民会での議決は元老院の承認がなくても国法となることが取り決められた。

拡大するローマ

イタリア半島の統一(前272)

軍道の整備
→「全ての道はローマに通ず」

分割統治
→イタリア半島内の都市を植民市・自治市・同盟市に区分。征服した都市に格差を設けることによってローマに対しての団結を防いだ。一番待遇がいいのが植民市。

ラテン同盟戦争(前340〜前338年)
→ ラテン人とはローマもふくむイタリア人の一派で、ティベル川流域のラティウム平原に居住し都市を形成。そのひとつであったローマを中心にして対等な都市同盟としてラテン同盟(前493年)を結成したが、しだいにローマが強大になると他のラテン同盟市との対立が生じ、前338年までにローマはラテン同盟市を武力で制圧した。

サムニウム戦争(前343〜前290)
→第一次〜第三次まで。サムニウム(サムニテス)人は半島の中部(カンパニア)から東南部にかけて牧畜を主体に山地で生活していたイタリア人の一派。第1次でローマはサムニウム人の内紛に乗じてカンパニアに進出した。そのローマの強大化を恐れてラテン同盟市が反発し、ラテン同盟戦争となった。第2次ではローマは中部山岳地帯のサムニウム人に攻勢をかけ、アッピア街道を造って征服を進めた。第3次はエトルリア人、ガリア人などをまきこむ大戦争であったが、ローマは重装歩兵部隊の力で勝利を占めた。

ギリシア人植民市の制圧(前282〜前272)
→ イタリア南端には古くからのギリシア人植民市がマグナ=グラエキアと言われて栄えていたが、ローマはその制圧にのりだし、その中心のタレントゥムを前272年に攻略しイタリア半島の統一を完成させた。

ポエニ戦争(前264〜前146)

カルタゴ(フェニキア人の都市)vsシラクサ
シラクサ側を支援するために参戦。ローマとカルタゴの西地中海の覇権をめぐって前後3回にわたった戦争。ローマはこの戦争に勝ち、西地中海の制海権と共に多くの属州を獲得、世界帝国への歩みを始めた。

第一回ポエニ戦争
→ローマはシチリア島を獲得。ローマ初の属州になり、ここは穀物生産が非常に有利だった。

第二回ポエニ戦争
→カルタゴの名将ハンニバルの登場。アルプスを超えて北イタリアへ侵入したためローマは苦戦を強いられる。しかしスキピオの活躍によりザマの戦いでハンニバルを撃破。

第三回ポエニ戦争
→ ローマ軍が北アフリカに上陸してカルタゴを包囲、前146年に最終的にカルタゴを滅ぼして破壊し、ポエニ戦争は終結。

社会の変容と内乱の一世紀

広大な領土を獲得したローマ

属州(プロヴィンキア)
→イタリア半島以外のローマの征服地を指す。

騎士(エイクテス)
→属州の徴税請負人。公共土木事業や軍需品調達などで活躍。

奴隷制度の普及
→主に戦争奴隷を使用。農業奴隷として大土地経営に利用。

社会の変革

◎中小農民の没落
→戦費自弁での長期間の従軍・戦争による農村の荒廃と農民の没落が起こる。さらに属州からの安価な穀物の流入により無産市民となる。「パンと見世物」を求めて都市ローマに流れ込む。

ラティフンディア(ラティフンディウム)
→大土地所有のこと。かつて中小農民が所有していた土地を吸収。また、富裕層が征服活動で得た公有地を私有地化して大所領を形成。
→大量の奴隷を酷使した果樹栽培(オリーブ・ブドウなど)

◎新たな派閥闘争
閥族派(代表者スラ)
→元老院中心の政治体制を維持。金持ちサイド。
平民派(代表者マリウス)
→民会を基盤に政界に進出。平民サイド。

ローマの混乱

内乱の一世紀(前2世紀~前30)
→閥族派と平民派の内乱・都市の反乱・奴隷の反乱・対外戦争が続いた時期。ローマ共和政からローマ帝国への移行をもたらした
グラックス兄弟への改革(前133~前121)
→無産市民への土地の分配。自作農創設による軍の再建を目指す。しかし金持ちの反発で失敗
同盟市戦争(前91~前88)
→イタリア半島内の同盟市がローマ市民権を要求して蜂起。鎮圧後、イタリア半島内すべての都市に市民権を与えたことにより都市間の差別がなくなる
スパルタクスの反乱(前73~前71)
→剣闘士としてコロシアムで戦わなければいけなかった人物。奴隷蜂起を象徴する出来事

第一回三頭政治(前60~前53)
→混乱するローマをどうにかしようと3人が協力
ポンペイウス→スラの後継者
クラックス
カエサル→マリウスの後継者。
→元老院に対抗しようとしたもの。カエサルは将軍、ポンペイウスは軍人で政治家、クラッススは富豪として、それぞれ人気があったが、まだ互いの名声に依存しなければならなかった。カエサルのガリア遠征やポンペイウスの軍人としての業績に対抗するためにクラッススが無謀なパルティア遠征を行い、その途次の前53年に戦死したことによってその一角が崩れると、カエサルとポンペイウス間に亀裂が入り、ローマの軍事指揮権をいずれがもつべきかについて、元老院・ローマ市民も両派に分かれて対立するようになった。

カエサルの独裁(前48~前44)
→ローマに残ったポンペイウスは元老院と結び、独裁権を得ようと画策するようになった。前54年にカエサルの娘でポンペイウスと結婚したユリアが出産のために亡くなったことも両者の関係の冷却化を進めた。カエサルは軍を率いたままローマに帰り、再び執政官に立候補しようとしたが、元老院とポンペイウスはそれを認めようとしなかった。それを知ったカエサルは、属州とローマ本土の境界線であるルビコン川を超え、軍を率いてイタリアに入った。
 権力争いに勝利し、混乱を収束させるために終身ディクタトルに就任
●カエサルの暗殺
→共和主義者ブルートゥスらにより暗殺。話し合いを重視していたローマで独裁を行ったために反感を買った。

第二回三頭政治(前43~前48)
アントニウス
→エジプトへ赴き女王クレオパトラと結託
レピドゥス
→早めに失脚。
オウタウィアヌス
→カエサルの養子

この結果アントニウスとオクタウィアヌスが覇権争い。
アクティウムの海戦(前31)
アントニウス・クレオパトラ
vs
オクタウィアヌス
→オクタウィアヌスの勝利、ローマの地中海支配が完成した。

ローマ帝国

ローマの帝政

元首政(プリンキパトゥス,前27〜後284)
アウグストゥス(位 前27〜後14)
→「尊厳者」の意味。オクタウィアヌスのこと。ローマの混乱を収束させたことで元老院からこの称号を授かったが、自らプリンケプスを名乗り「市民の中の第一人者」であることを強調して独裁を行った。(詳しく書くと流石に長いので以下世界史の窓を参照)

アウグストゥス像

五賢帝の時代(96〜180)
ネルウァ帝(位96〜98)
→優秀な人物を自分の養子にすることで安定した帝国を目指す。
トラヤヌス帝(位98〜117)
→最大領土。ダキアを征服して属州とし、パルティアとも戦い勝利。
ハドリアヌス帝
→帝国各地を巡遊、国内安定路線を確立。任期中ほぼパルティア、ゲルマン人との戦いに専念。ブリテン島に長城を築く。
アントニヌス=ピウス(位138〜161)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス帝(位161〜180)
→著書『自省録』ストア哲学者としても有名。パルティアとの戦争に苦しみ、さらにゲルマン人の大規模な侵入が始まり苦戦が続く中、ウィンドボナ付近で病没した。実子のコンモドゥスが帝位を継いだが悪政を行い、殺害されるなど混乱した。

カラカラ帝(位211〜217年)
→五賢帝時代に続き、セウェルス朝を始めたセプティミウス=セウェルスの子で帝位を継承。本名はマルクス=アウレリウス=アントニヌス(五賢帝の最後の皇帝と同じ名前だが関係はない)で、父の遠征先の属州ガリアのリヨンで生まれた。いつも着用していたガリア風の長い上着のことをカラカラといったので、それが彼の呼び名になった

●市民権の拡大(212)
→帝国領内の全自由民にローマ市民権を与えた。一般的には、属州を含めての全自由民に市民権を拡大したことは、ローマが単なる都市国家が膨張した国家ではなく、ここで正式に「世界帝国」となった、という意義が認められている。しかし、カラカラ帝の市民権拡大の意図は、ただ相続税収入を増やすために過ぎなかったとも言われている。それまで市民権のない者は相続税を払わないでよかったからである。この命令は、彼の本名からアントニヌス勅令ともいう。

パクス=ロマーナ

→アウグストゥス〜五賢帝までの安定期

季節風貿易(1〜2世紀頃)
→インド洋の季節風を利用

◎ローマ風都市の建設
→ロンドン、パリ、ウィーンなど

コロナトゥス(土地制度)
コロヌス(小作人)を使役した大土地経営へ移行。以前は奴隷を用いたラティフンディアだったが、奴隷は使い捨てられるので小作人にすることで農業人口を維持した。

ローマの危機

◎3世紀の危機
軍人皇帝の時代(255〜284)
約50年間に各地の軍団が司令官を皇帝に擁立して抗争。
●北方のゲルマン人や東方のササン朝ペルシアの侵入
ウァレニアヌス(位253〜260)
→ササン朝に敗北し捕縛される

専制君主政(ドミナトゥス,284〜395)
ディオクレティアヌス帝(位284〜305)
四帝分治制(テトラルキア)
→帝国を4つに分け、4人の皇帝を配備
皇帝崇拝の強制
→キリスト教徒を迫害

コンスタンティヌス帝(位306〜337)
ミラノ勅令の発布(313)
→キリスト教の公認
コンスタンティノープルへ遷都(330)

テオドシウス帝(位379〜395)
キリスト教の国教化(392)
→全ての異教信仰を禁止

東西分裂(395)
→テオドシウス帝の死後、ラヴェンナ・ローマを中心としてイタリア半島とその周辺を支配する西ローマ帝国と、コンスタンティノープルを中心として東地中海・バルカン半島・小アジアを支配する東ローマ帝国とが成立。

キリスト教の発展

キリスト教の成立

イエス
→パレスチナに生まれる。当時はユダヤ教が浸透。

パリサイ派
→律法を厳格に遵守する。
救世主 (メシア) であることを自覚
→神の絶対愛 (無差別 無条件の愛)
隣人愛 (民族的な区分を否定) を説く

◎キリスト教の成立(1世紀)
→信徒は, イエスがキリスト (救世主)であることと、その教えを信じる

使徒 (イエスの直弟子)の活動
ペテロ (ペトロ、 ?~64)
→ローマ伝道に尽力
パウロ (?~60以後)
→「異邦人の使徒」東方各地を伝道

◎『新約聖書』の完成
→4世紀までに現存の形に成立
●『福音書
→イエスの言行録
●『使徒行伝
→ペテロやパウロなどの伝道を記述

迫害の歴史

◎皇帝崇拝の拒否
→ 「良き皇帝」 は死後に神格化(国家神)
ネロ帝の迫害 (64)
→ローマ大火の責任を転嫁
ディオクレティアヌス帝の大迫害(303~313)
ユリアヌス帝 (4世紀後半)
→「背教者」とよばれる

カタコンベ (地下墓所)
→避難所・礼拝所として利用

ミラノ勅令 (313)
→コンスタンティヌス帝
◎キリスト教の国教化 (392)
→テオドシウス帝

教義の統一

ニケーア公会議(325)
アタナシウス派 (キリスト教の正統教義)
三位一体説
→父なる神、子なるイエス、聖霊の三者は同質で不可分
アリウス派
→イエスに人性を強く認め、異端とされる

エフェソス公会議(431)
ネストリウス派
→イエスの神性と人性とを分離し異端とされる

カルケドン公会議(451)
単性論
→イエスに神性のみを認める立場で、異端とされる

ローマ文化

文学と自然科学

◎文学(ラテン文学)
ウェルギリウス (前70〜前19)
→『アエネイス』 (建国叙事詩)
キケロ (前106〜前43)
→ラテン語散文の模範
ホラティウス (前65〜前8)
→『叙情詩集』
オウィディウス (前43〜後17頃)
→『転身譜』

◎歴史
タキトゥス (55頃〜120頃)
『ゲルマニア』
→ゲルマン人の生活を描く中でローマの凋落を悟った。
ポリビオス (前200頃〜前120頃)
→政体循環史観の提唱
カエサル (前100頃〜前44)
『ガリア戦記』
リウィウス(前59〜後17)
→『ローマ史』(『ローマ建国以来の歴史』)
プルタルコス (46頃〜120頃)
→『対比列伝』(『英雄伝』)

◎自然科学
プトレマイオス (2世紀)
→天動説を提唱
ストラボン (前64頃〜後21頃)
→『地理誌』
プリニウス (23頃〜79)
→『博物誌』

ギリシア由来の文化

◎哲学 (ストア派)
マルクス=アウレリウス=アントニヌス(位161~180)
→著書 『自省録』
セネカ (前4頃〜後65)
→『幸福論』, ネロ帝の師
エピクテトス (55頃〜135頃)
もとはギリシア人奴隷

ローマ独自の文化

ローマ法(市民法から万民法へ)
→さまざまな風俗・習慣を持つ民族すべてに
適用できるようにする。

◎土木・建築
コロッセウム (円形闘技場)
→剣闘士などの試合が行われた闘技場
凱旋門
パンテオン (万神殿)
→種々の神をまつった神殿
ガール水道橋 (南フランス)
→石造の水道橋
浴場 (娯楽施設)
→カラカラ帝の建造のものが有名

ガール水道橋

◎暦
ユリウス暦 (前46年)
→カエサルが制定。季節のずれを修正するためエジプトの太陽暦を採用。

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