見出し画像

日本文化の基層 ③イネとコメの日本史_6 近世

さて、江戸時代、初めの100年で人口は3倍近い3000万人に達します。

寛永と元禄の飢饉はあるものの、婚姻革命や小農民の自立、平和な時代が人口を押し上げました。

しかし、自国通貨を発行し、コメ=貨幣掲載になったことに気が付かない幕府は、享保・寛政・天保という新田開発を中心とした3つの改革という名の改悪を行い、自らの首を絞めて行きました。

この時代、田畑面積は2倍に増え、実石高も1.5倍になります。幕府や藩の石高による格式や、武士の給料〇〇石は一定です。一方、コメは収量が増えれば増えるだけ、貨幣価値を落として行きます。

八代吉宗による「享保の改革」の新田開発以外は評価しています。もうすでに始めの100年で充分に田畑は開発されていたのです。それ以上の開発は結局、無理筋だったと思われます。

水利を伴わない土地であったり、刈敷のための採草地や里山までもが新田となって行きました。その結果は荒蕪地(コウブチ)と化し、年貢の納入も難しくなり、わずかな期間で元の原野に戻ってしまったのです。

ガチガチの朱子学は、祖法を変えることができず、貴穀賤金・官尊民卑・男尊女卑でコメ中心の農本主義から抜け出せず、結局、滅んで行くこととなりました。

江戸時代の後半150年間、人口はほとんど増えていません。世界的な小氷期です。

1732年、ウンカ(虫害)による「享保の飢饉」が、西日本を襲います。1755・56年 宝暦、1782~87年 天明、1833~39年 天保といった飢饉は、東北を中心とした冷害で、その都度、数万から数十万人が亡くなっています。そして、コメが「金銭」となった市場主義は、東北で食料不足が起きるのを承知しながら、人々の私利私欲が投機的売買により、大都市へのコメの出荷として表れます。

東北地方の窮状は、より深刻なものへと追い込まれて行きました。全国的にも百姓一揆などが多発していきます。
また、大都市への人口集中は、独身率の高さが出生率の低下を招き、大火やインフルエンザなどの感染症、幕末にはコレラの流行で、簡単に数万人が亡くなるという高死亡率などが、人口の停滞を招いた原因だと思われます。

しかし、太平の世が続いたこの時代、様々な逆風は吹きますが、新田開発、品種改良、肥料改革(イワシやニシンを干したもの)、農書の普及などの農業技術の進歩もあり、何よりも農村での家庭経営の定着が、農民を豊かにしていきました。コメの収量の多い地帯では、農民でも田畑におにぎりを持参する者が現れたり、そのおにぎりに海苔を巻くようなことも、元禄の頃から現れます。

庶民にも照明用の菜種油が普及し、1日3食の習慣が根付きます。
お金と化したコメは、都市部に集中します。
武士はおろか、庶民にまで「江戸わずらい」「大阪腫れ」という奇病が発生します。
そう、白米ばかりを食べるために起こる脚気です。

この時代でも、地方の多くでは玄米や雑穀と野菜を混ぜて炊いたものを食べていたため、都市だけで起こる病気でした。

最近、教科書から消えてしまった『慶安の御触書』について記しておきましょう。
その内容は
①    朝は早く起き、草を刈り、昼は田畑の耕作をして、晩には縄をない、俵をあみ、それぞれの仕事に気を抜くことなく励むこと。
②    酒や茶を買って飲んではならない。
③    百姓は雑穀を食べ、米を多く食い潰さないようにせよ。
④    百姓の衣類は、麻と木綿に限る。
といったものです。

消えてしまった理由としては、慶安年間でもなく、まして幕府公布の「触」でないことの判明と、農民たちの辛い暮らしが、何とも暗いイメージを与え、それが戦後の唯物史観の影響ではないかという反省から来たというものです。

そして、近年の研究でわかって来たことは、1697年に甲府藩によって制定された「百姓身持之覚書」というものが、のちに美濃国岩村藩に伝わり、木版本『慶安緒触書』が作られ、さらに1830年に幕府学問所総裁の林述斎(ハヤシジュサイ)がそれを発見し、これを「慶安の御触書」と名付けたのではないかと考えられています。

時代背景を見ると、「元禄の飢饉」の頃であり、世は小氷期に向かって行く頃です。

また、甲府は黒ボク土地帯であり、今日ではぶどうを中心とする果樹園が多くワインの産地となっています。

ちなみに、黒ボク土地でも保水対策や肥料によって、コメが出来ないわけではないのですが、おそろしくまずいコメが取れるということです。

美濃国も山深い所で、このような所では昔からの伝統として粟や黍などの雑穀が大切にされたのでしょう。

下の部はコメが充分に生産されている昭和30~40年頃の調査です。

餅以外のものを新年の正式食物とする「餅なし正月」の分布(本間、1967による)
『日本文化の多重構造』佐々木高明著 小学館より

※網野善彦氏も生まれは山梨県で、正月の御雑煮にモチは入っていないとおっしゃっていました。

そして、「質素倹約令」を出した三代家光の時代の暦「慶安」がおそらく後付けされたのでしょう。

ただ、この時代は農民以外でも、けっこうフルライフで暮らしていたと思われ、人々の日常も質素倹約に勉めていれば、こんなものかと思ってしまいます。

特に④は、絹は着るなというものは、今でも普通でしょう。
②の酒や茶には同情しますが・・・。

※ほとんど丸写しも多い参照資料
◎著者:佐藤洋一郎氏
『イネの歴史』京都大学学術出版社
『稲の日本史』角川ソフィア文庫
『米の日本史』中公新書
◎著者:奥田昌子氏
『日本人の病気と食の歴史』ベスト新書
◎著者:田家康氏
『気候で読む日本史』日経ビジネス人文庫
◎著者:鬼頭宏氏
『人口から読む日本の歴史』講談社学術文庫
◎著者:上念司氏
『経済で読み解く日本史』飛鳥新社
◎著者:井沢元彦氏
『中韓を滅ぼす儒教の呪縛』徳間文庫
『動乱の日本史(徳川システム崩壊の真実』角川文庫
◎著者:蒲地明弘氏
『「馬」が動かした日本史』文春新書
◎著者:山本博文氏ほか
『こんなに変わった歴史教科書』新潮文庫
◎著者:小泉武夫氏
『幻の料亭「百川」ものがたり』新潮文庫
◎著者:山と渓谷社編
『日本の山はすごい!』ヤマケイ新書
◎著者:森浩一氏
『日本の深層文化』ちくま新書
◎著者:佐々木高明氏
『日本文化の多重構造』小学館
◎著者:原田信男氏
『日本人はなにを食べてきたか』角川ソフィア文庫
◎著者:武井弘一氏
『江戸日本の転換点』NHK BOOKS

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?