定期テスト廃止〜ゆとり教育再来の危機
私の教えている生徒の中学校では、2023年度から定期テストの実施方法が大きく変更された。
以下は、その生徒の住む市の教育長のコメントである。
これは、あるひとつの中学だけが単独で行なった変更であり、その市全体で実施しているわけではない。
成績評価方法についての保護者説明会や手紙の配布もない。
学力がそれほど高くない地域の中学校であるから、保護者もそれほど気にしないのであろうか。
私は年度初めにその話を生徒から聞いて、嫌な予感がしていたのであるが、新学期から2ヶ月が経ち、その全貌が見えてきた。
[1]問題集が使われなくなった
数学を例にとろう。
これまでであれば、中間テスト1週間前に入ると、テスト範囲が発表され、数学の問題集のページが指定される。
生徒たちは、問題演習をして、答え合わせをして、試験日までに提出することが常であった。
しかし、今年度はその問題集自体が配布されていない。
授業の様子を聞くと、数学の教科書も使われておらず、何やらプリントが配られて、それを用いて授業をしているという。宿題もほとんどない。
単元テストは、1週間または2週間に一度行なわれ、試験時間はこれまでの半分の25分。問題量も当然半分。
私の塾では、これまでの定期テスト対策と同様のレベルで生徒に準備させて臨んだのであるが、テスト内容は至極平易。
いわゆる小学校の「小テストレベル」で、学校の授業の内容を軽くおさらいするだけの内容。誰もが簡単に高得点を取れる。
皆が良い点を取れて、スモールステップで学力の確認もできて、いいことだらけのように見えるが、言うまでもなく落とし穴だらけである。
ゆとり教育の再来もいいところだ。
[2]絶対的練習量の不足
小学校であれば、九九の暗唱・百ます計算といった、反復練習の絶対的演習量をこなすことが欠かせない。
中学校であれば、因数分解の計算練習は多ければ多いほど良い。
単に知識として知っているというだけではなく、手が勝手に動き、頭は計算以外のことを考えられるような状態になるまでに訓練しておかなければ、以後の高等数学を処理することは難しくなる。
そうであることなど周知の事実であるにもかかわらず、ここにきて、昨年の生徒と比べて「問題集1冊分」の練習量が減るというのだから、これで学力が落ちないはずがない。
これを「ゆとり教育の再来」と言わずして何と言おうか。
「単元テスト」「小さなサイクル」などと耳触りの良い言葉を用いてはいるが、結局は「学力低下」に誘導しているに過ぎない。
このことは、私の教えているその中学生をみていて、明らかに実感される。
彼の計算スピードが目に見えて落ちてきていることが、最近ずっと気がかりだった。
それも文字式などの複雑な計算ではなくて、2桁の足し算・引き算などの単なる小学生レベルの暗算のスピードが、目に見えて遅くなっていた。
いわゆる「頭が回っていない」のである。回転が遅い。
こんなものは「慣れ」なので、毎日普通に計算していれば、それなりのスピードは維持されるはずである。
それがここ最近目に見えて遅いのが、確かにずっと気になっていた。
その自分の気かがりが杞憂ではなく、本当の現実的な心配になってしまったことが、非常に残念だ。
小学校のように、恒常的にきめ細かなチェックを行ない、一人ひとりの学力を丁寧に伸ばそうというその理念は正しい。
しかしながら、「問題集を与えない」というその一点を見る限り、この理念が単なる「絵に描いた餅」に過ぎないことは明白である。
現在の世界情勢における日本の位置付けを鑑みるに、「政治も経済も教育もすべてが劣化している、いや、無理やり劣化させられている」という事実から私たちは目を背けてはならない。
[3]世の中の二重構造〜アメとムチ
これは世の中でよく用いられる騙しのテクニックである。
一見耳触りの良い理想的な方針を掲げておいて、その裏でこっそりと毒を忍ばせる。
政治、経済、あらゆる分野で常用される支配のテクニック。
私たちは、物事の両面を見なければならない。
どんな物事にも、必ずプラス面とマイナス面があるのであって、その両方をフラットに客観的にそのまま認識しなければならない。
しかしながら、それができない人があまりにも多い。
物事の良いところだけ、悪いところだけ、片方だけをことさらに騒ぎ立てる人があまりにも多い。
物事には「良いところもあれば、悪いところもある」のが当然なのだ。
それだけのことを実践できない人があまりにも多い。
今回の「単元テストへの変更」にしても、「良いところ」と「悪いところ」の両面あるのが当然なのであって、そのどちらも均等に認識しなければならない。
「良いところ」はもちろんあるが、単元テスト制の実施によって問題演習量が減るのは「絶対的に悪」だ。
たしかに詰め込み過ぎは良くないが、ある程度の問題演習量を子どもにこなさせなければ能力を伸ばせないということは、「ゆとり教育問題」で学んだはずだ。
また同じ轍を踏もうとしている。
いや、同じ「失敗」ではないのだろう。
過失ではなく「故意」だ。
あえて分かってやっているとしか考えられない。
数学において、問題集を子どもに持たせなければ、絶対的に計算量が減るし、絶対的に能力は下がる。
いくら耳触りの良い理念を掲げても、「演習量」という絶対的物差しで測れば一目瞭然だ。
そこに「目くらまし」がある。
教育長や学校長に聞いてみたいものだ。
しかしながら、仮に今もし彼らにそのことを問いただしたとしても、彼らは「単元テストへの変更」の素晴らしさを心の底から信じているに違いない。
だからこそ、堂々と恥ずかしげもなく詭弁を弄す (ろうす) ことができるのである。
彼らは、自分たちのしていることが、日本の子どもたちの学力低下に拍車をかけ、結果的に日本の没落に加担してしまっていることに気付いていない。
自分たちがさも素晴らしいことをしていると曲解している、憐れなピエロ。
[4]家庭教育の崩壊
私の独断と偏見で体制側を一方的にこき下ろしているが、それではさすがに利益衡量に欠ける。
反対利益も考慮しておく。
仮に教育長・学校長の立場に立つとするならば、「問題集を与えてもこなせないほど、すでに生徒の学力がそこまで低下している」という現実が考えられる。
アルファベットから教える高校や、小学校の分数計算から教える大学があるのは有名な話であるが、今回のこの中学においても、今までやってきたレベルでは教えることができないほどに、数学の全体の基礎レベルが下がってしまっている可能性がある。
ひどい小学校が多い。
昨今は百ます計算に代表される反復練習なども当然しないため、子どもたちには計算力が全くない。
そんな状態で中学に上がっても、複雑な計算をこなせるわけがない。
小学校でマスターしておくべき基礎がないのであるから、中学校の先生も教えようがない。
次善の策として、「単元テスト」「スモールステップ」と称した「ごまかしの授業」を進めるしかない、という可能性は十分に考えられる。
そもそもの話として、「家庭教育の崩壊」も大きな原因のひとつだ。
核家族・共働きが当たり前になり、乳児・幼児に対する家庭教育は質・量とも限りなくゼロに近い。
保育園任せ・幼稚園任せでは限界がある。
両親・兄弟姉妹・祖父母・友人・学校・地域・社会。
本来はそれらが一致協力して子どもを教育しなければならない。
そういう根本的なところから立て直す必要がある。
そう考えれば、教育長・学校長にも一定の同情はできそうである。
しかしながら、「地域・社会の立て直し」こそが彼らの仕事の本分であるわけだから、やはり情状酌量の余地はない。
[5]数学の必要性〜子どもの未来
数学というのは、論理的思考力を鍛えるための最重要科目である。
たとえ現実的必要性に迫られてのやむを得ずの変更であるかもしれないとはいえ、問題集を与えずに、結果的に数学の力を確実に落とすことになる「単元テストの実施」は、事実上の「教育放棄」にほかならない。
私たち大人が危機感を持って、子どもたちの将来を守る必要がある。
兎にも角にも、まずは私の塾だけにおいても、算数・数学の楽しさを伝え、たくさん練習を積ませ、成績を伸ばし、社会で充分通用するだけの能力を身に付けさせてあげたいと、強く思う。(了)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?