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【京大思考の時代】 自ら考え抜く力

この記事は6,674字です。

「東洋経済ONLINE」にこんな記事があった。

「入試数学」の観点からみる東大・京大の違いである。


今回はこの記事に触発された形で、「入試現代文」をもとにした東大・京大の違いを述べる。

最終章では、その違いから導き出される「私たちの今後の生き方・在り方」について、核となる方向性を提示する。


[1]浪人時代の東大・京大の印象

代々木ゼミナール大阪南校

私は京都大学法学部の出身であり、浪人時代は代々木ゼミナール大阪南校の「東大・京大コース」に在籍していた。

当時の関西の予備校では「東大コース」・「京大コース」という別々のコースは少なかったように思う。

「東大・京大コース」と一括にされていることが多かった。

しかし、よくよく考えてみると、明らかに入試問題の質も量も異なる両大学を1つのコースに括ること自体がそもそも無理のある話である。

今にして思えば、浪人時代に両大学の特徴ある入試問題をこなしたことで、幅広い学力をつけることができ、結果として非常に有益な予備校生活を送ることができたと言えるが、両大学への最短ルートを考えるならば、「東大・京大コース」は非効率そのもののカリキュラムであった。


私は文系であるので、数学については、受験生当時、両大学の違いをそこまで感じることはなかった。

先に紹介した「東洋経済ONLINE」の記事において、京大数学の真髄は「最小限の情報から自分で可能性を導き出す楽しさ」であると表現されている。

受験時にこのような観点を認識していたならば、答案の書き方ももっと違っていたかもしれない。


当時から「京大の教授は計算用紙の隅から隅まで見てくれる」との話は有名であったが、「細かな計算結果よりも、大きな流れ・論理性・思考力が問われる」ことを意識して勉強していれば、京大数学への取り組み方も変わっていたに違いない。

当時の私は、数学まであまり勉強の意識が回らず、ただ単に過去問の解答パターンを暗記していただけだった。

最小限の情報から自分で可能性を導き出す楽しさ」に目覚めたかったものである。


[2]東大現代文・京大現代文の違い


思い出を書き綴っているとキリがないので、浪人時代の話はまた別の機会に譲る。

「入試現代文」における東大・京大の違いの話である。

有名なのは、記述解答欄の「枠の大きさ」だ。

現在は「行」が指定されていて、基本的には東大が2行、京大が4行といった感じである。京大の方が2倍多く書ける。


私の受験生時代は、単に解答欄の「枠」だけがあり、字数制限もなく、その枠の中にいくら細かく詰め込んでも OK というものだった。「常識的な大きさ」はもちろん必要であるが。

当時の私は、両大学の求めている内容の違いがよく分かっていなかったし、「解答をどう作ればよいか」のメソッドも確立されていなかったので、本当にその場その場の「勘」に頼っての解答であった。


特に京大現代文においては、予備校講師の板書する長文解答の意図が分からず苦戦した。

「なぜそんな長々と文章を書かなければいけないのか」の説明を講師がしない。

あたかも「大きな枠を埋めなければならないから」、わざわざ長く書いているような印象さえ受けた。


当時の私はいつも「どうやって長く書くか」ばかり考えていて、肝心の解答のポイントにまで意識が回っていなかった。

「とにかく文章内の色んな要素を全部入れて、部分点を稼げばよいのだろう」くらいに考えて、とにかく全部詰め込むことだけに集中していた。


浪人生の私が当時そう考えていた、ということは、当時の大体の予備校講師もそう考えていた、ということなのであろう。


今となって考えてみると、そら恐ろしくなってくる。

よくそんな幼稚な考えを持ちながら京大に合格できたものだ。

ただ、私の受験本番においては、京大の求める解答をきちんと作ることができたのではあるが。


私が受験においてこの境地に達することのできた経緯は、以下の記事にまとめてある。


いずれにせよ「入試数学からみる東大・京大の違い」の記事にもあるように、京大は「数少ない原理・定理をヒントとして、自分の頭の中から解答を作り出すこと」を求めている。

たとえ結論自体は間違えていたとしても、スタートとなる原理から自分で論理的に筋道立てて、ある種の結論を自分で導き出すことを最重要視するのだ。


もともと自分にはそういう特質があったし、東大よりは断然「京大向き」であったし、今となっては「必然の宿命」であったとさえ言える。

ただ、そういうことは受験当時全く認識していなかったし、単に「京大だと家から通えるから」「東京に行くのは怖いから」などといった、くだらない理由しかなかったのであるが、直観的には「自分は京大向きだ」と感じていたのかもしれない。


[3]予備校講師としての東大・京大の違い

予備校講師として東大・京大の現代文を分析してみると、両者のあまりの違いに驚かされた。

「解答欄の大きさ」が異なるのは誰でも分かることであるが、受験生時代の私も、単に文字数の違いとしてしか認識できていなかった。

問題文の質も量も両大学でそんなに変わらないし、質問形式も「どういうことか」「なぜか」が主流であるから、「単なるまとめ方の違いだけだろう」くらいに思っていた。

東大の場合は要約問題も出題されるから、「東大はとにかく短くまとめればいいんだろう」と簡単に考えていた。

京大は解答欄の枠が大きいから、東大で要求されるような短い答えに肉付けして膨らませて、「とにかく詳しく説明すればいいんだろう」と思っていた。


今振り返ると、こんな幼稚な考え方でよく合格できたものだとつくづく思う。

それだけ「東大・京大合格者」といっても大したことはないということだ。

そんなに完璧に物事を理解していなくても合格はできる。

所詮は10代の未成年者なのだ。


予備校講師として「東大現代文・京大現代文」を沢山解いてきた身として、今は確実にその違いを説明できる。

一言で言うと「数学における東大・京大の違い」と同じである。

したがって、以下はお読みいただく必要がないくらいであるが(笑)、せっかくなのでご説明する。


[4]東大現代文の特色

東大時計台

東大・京大とも、現代文1つの大問につき4〜5問の小問がある。

そのひとつひとつの問題を順に解いていくと、文章全体の各部分の意味が順に捉えられるようになっている。

引かれている傍線部の位置が絶妙で、その傍線部の意味を深く考えることで、その周囲の意味も深く理解できるように設問が工夫されている。

大体は「どういうことか」「なぜか」と問う形式が多いが、それだけでは設問者の意図が受験生に伝わりにくいと考えられる場合には、さらに細かい指示が出される。

そうして文章の部分部分の意味を捉えながら終盤まで読んでいくと、最後にまとめ問題として、全体を大きく捉える問題が出される。

東大の場合は、全体の要約のような形になることが多い。

これまで解いてきた各設問で考えてきたことを全部まとめて1つの結論を出す、といったイメージである。

(もちろん「随筆」などにおいて、何もヒントもないようなところから自分で答えを捻り出さなければならない場合もある。)


東大数学においては「与えられた多くの情報をいかに効率よくまとめるか」の視点が要求されるという話であったが、東大現代文においても同様の観点が垣間見られる。

そのような観点を、あの現代文入試問題上でハッキリと具現化させることのできる教授陣は、やはりとてつもない能力を持っていると言わざるを得ない。


東大・京大の世界的地位、中国との関係などについて、まことしやかに囁かれるブラックな話題も多いが、やはり「腐っても鯛」である。まだまだ「東大は東大」「京大は京大」なのである。

大学進学の価値が相対的に下がっている現代においても、やはり「東大・京大」は目指す価値のある大学であると断言できる。


[5]京大現代文の特色

京大時計台
(クスノキがシンボル)

予備校講師として入試現代文を深く研究し、たくさんの問題を解き、人生経験も重ねてくると、京大の味わい深さが身に染みてくる。

東大と京大で問題文や設問形式が外見上そんなに変わらないので、一般的には「東大・京大」と一括りで考えられがちだが、それは全く違う。


京大現代文の解答 (特に最終問題) を考えていると、知らぬ間に迷宮に誘い込まれるような、渦に巻き込まれるような、思考の循環が止まらなくなるような、不思議な感覚に襲われることがよくある。

「試験合格のための解答」として必要最低限のものを生徒に提示するだけであれば、それなりの解答を作ることはできる。

しかし、もう一歩踏み込んで、他の受験生と差をつける解答を作ろうと思えば、なかなか一筋縄ではいかない。


もっとも、本番に臨む受験生にとっては、1つの問題につき、せいぜい5分程度で解答を作らねばならないのであるから、そもそも完璧な解答を作ろうとすること自体が無理のある話である。


よく見かけるのが、「どこのどの受験生が本番でそれを書けるのか」と思わず聞きたくなるレベルの「超絶」模範解答である。

腕自慢の予備校講師に多い。

「オレの素晴らしい解答を見よ」「オレの文章力を見よ」「すごい発想・角度だろ」などという、単なる自己満足の解答を、さも絶対的に正しいかのように提示する講師は多い。

講師である以上、試験である以上、「制限時間と合格点」を視野に入れた「現実的な」解答を生徒に提示することが、本来のプロの仕事であるはずだ。

「趣味で最上級の解答を練り上げるだけ」であるならばいいが、それをあたかも「現代文入試の絶対的模範解答」として提示することには、私はどうも抵抗がある。

現代文入試は、あくまで「入学試験」であるのだから、短時間で簡潔に正確に全体の6〜7割をとれる解法を示すべきだ。

プロとして仕事をする以上、もちろん100点満点の模範解答も提示できればそれに越したことはないが、現実的に受験生はそんな解答を求めていないのだから、そんな模範解答の押し付けは単なるエゴでしかない。


私の場合は、徹底的に受験生の立場に立ち、受験生が本番の5分程度の制限時間の中でいかに効率よく得点を稼ぐことができるかを第一に考える。

そのための指導方法を日々考え、受験生と共に切磋琢磨し、講師と生徒が合格への道のりを共に歩むことに、私は生き甲斐を感じる。

これからは志を同じくする後進もたくさん育てていきたい。


話が脱線した。

京大現代文の話である。

東大現代文においては、たくさんの情報を書き出して、整理してまとめることで処理できる問題が多い。

京大現代文においても基本的には同じであるが、最終問題において、単純に表面上に出ている情報をまとめるだけでは、どうもしっくりこないことが多い。

出題されている文章に最後の結論がハッキリとは書かれておらず、ぼやかされた表現で終わっていて、それをそのまま書くだけではしっくりこない、というところであろうか。

京大の教授陣があえてそういう文章を選んでいるのであろう。

そして、そういう出題の仕方をしているのであろう。

最後の問題においては、どうしても「自分なりの意見」「自分なりの思考過程」を書く必要性が出るように、問題そのものが作られているのだ。

だから、そこの部分は「自分なりの考え」「自分なりのオリジナルの解答」を、思い切り書いていいのだ。

むしろそれを書かなくてはならない。

京大はそれをこそ望んでいるのだ。


このことを堂々と言える予備校講師は何人くらいいるのだろう。

「入試現代文は文章中に全ての答えがある」というのが業界におけるセオリーであるから、文章中にないことを書くのに抵抗を感じる講師・生徒がほとんどではないだろうか。

しかし、これから京大を目指そうとする学生は、以上のことを絶対に覚えておいてほしい。


( ※ 東大でも文章中に明示されていない内容が問われるが、その場合、論理的に反対にひっくり返すことで導き出せることがほとんどである。「全くのゼロから導き出せ」ということは少ない。)


京大数学で教授が計算用紙まで見てくれるのと同じく、京大現代文において完全にオリジナルの発想を書いても、絶対に読んでくれる。

それで得点できる。加点すらされるはずだ。

むしろ京大はそれを望んでいる。

型通りの模範解答など望んでいないのだ。

【2022年京大現代文・出題意図】
人間関係・生死についての哲学的思考が求められる。


以上は、大問の中の「最終問題」に限った話である。

基本的には文章中の内容を要領よくまとめることが最重要であるのは言うまでもない。


京大数学において、基本的な考え方をもとに独自の思考が要求されるという話であったが、京大現代文においても、まず基本的な「型」となる内容が文章内で提示される。

そして、それをもとに自分なりの思考過程が問われる。

結論の正当性は問わない。

自分なりの結論を論理的に筋道立てて書くことが求められる。


これは京大入試全般における絶対的な解法である。

なぜ「絶対的」と断言できるかというと、私自身が受験生時代にそのような解答を書いて合格したからである。

数学においては文系でもあるし、そんなに自由闊達には書かなかったが、(むしろ「守りの答案」に終始した堅実な解答であったが、)  英語・国語においては本当にのびのびと自由に書いた。

英語では「自分は翻訳家か」というくらい意訳したし、英作文においても、自分なりの解釈で文章自体を完全に書き換えた。

現代文においても、かなり自分なりの意見を書き加えたし、部分点を稼ぐための「要素の盛り込み」などしなかった。

これで合格したのだから、やはり京大は「自分なりに考えてその筋道を表現できるか」を主眼として受験生を選別しているとみて間違いない。


[最終章] 京大思考の時代

オーギュスト・ロダン「考える人」


私は今独自の考え方をもって、独自の活動を展開中であるが、私の思考形態は断然「京大向き」であると改めて認識する。

浪人時代は東大の入試問題の方が好きだったし、テンポよく効率よく問題を処理していく東大の方がオシャレだと感じていた。

しかしながら、大学を出て社会人となり、世の中がひどく混沌としてきた現在に至っては、普遍的な真理・定理をもとに「自分なりの考え」「自分独自のオリジナル解答」を捻り出すことが絶対的に必要である、と身に染みて痛感させられる。

「東大→官僚コース」を辿れば出世はできたのかもしれないが、たとえそんなコースを進んだとしても、すぐにドロップアウトしただろうし、結局は今と同じ道を歩むことになっただろう。

「たまたま関西出身だったから」ということもあるが、私が京大に縁のあったことは「必然の宿命」だったのかもしれない。

これからの「生き馬の目を抜く」世の中には、絶対的に「京大思考」が必要である。

もちろん「東大思考」を訓練することにより、正誤入り乱れ溢れんばかりの情報の渦に飲み込まれないよう、しっかりとデータを読み解いて整理する必要はある。

しかし、仮にそれらを要領よくまとめることができたとしても、情報全体の大きな方向性の判断は「自分自身の頭」でしなければならないわけであるから、「要領よくまとめる能力」を鍛えるだけでは絶対的に限界があるのであって、今後はそれらの情報をもとに、いかに「自分で」「オリジナルの」思考を展開できるかどうかが最重要になることは言うまでもない。


「東大か京大か」で迷っている受験生がいるのなら、私は間違いなく「京大」を推す。

自分で考えることはつらい。しんどい。面倒臭い。

しかし、これからの時代は「答えのないところから自分で考え抜く力」が絶対的に必要だ。

もうこれは疑う余地がない。


「東大思考」で要領よく生きようと思っても、パイの奪い合いになるだけだ。

しかもそのパイは縮小の一途を辿っている。

東大の「トップ中のトップ」に立つ自信があるのなら東大でも構わないが、それ以外は京大一択だ。


これからは皆が「京大思考」を要求される時代である。

原点回帰して、人間の原理・原則から組み立て直す必要がある。


東大・京大入試の比較から、やけに話が大きくなってしまった。

しかし、これらは受験生だけでなく、我々全員に当てはまる重要な話である。

私のこの記事をきっかけとして、一人ひとりが自分の頭でとことん考え抜き、自分の足でしっかりと歩みを進めていくことのできる世の中として、少しでも好転していけば幸いである。(了)

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