学歴について

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学歴とは、個々人がもつ歴史の種類うちのひとつであり、教育を受けた履歴、または、学習の履歴のことであると思われる。

これには論点がいくつも存在するが、それらはそちらの方面に任せ、ここでは、学歴がどう必要で、どう不要かを考えたい。

日本では自由主義と民主主義が自らの政治制度として採用された国家運営をしている。

その最初は、私人の財産を国が勝手に取り上げたりしないことが要請されている。もし自由主義でなければ、例えば国の経済政策のため国の所有となる。

次に、選挙された者でなければ、国の重要な地位に就けないことになっている。例えば生まれによって最初から大臣などとさせないためでもある。

私人財産と国家運営、この2つが国民の手に渡っている状態でこそ、国民はその判断の責任を自ら負うことに理由ありとされているだろう。

自由に仕事や居住を選べて、国民みんなで(民主的に)国の運営を決められると言い換えることもできる。

自由で民主的ではじめて、みんなで自由に営業したりして、いわば競争ができるのだ。自由でも民主的でもないと、どうなるか。

仕事は、士農工商で固定され、居場所も自由にならず、みんなはほとんど国の運営に参加できない。もしどちらも違反すれば手痛い罰があったりするかもしれない。過渡期は、武士か自由主義者か、だろう。

最近まで日本にもそういう時代があった。それからの現代社会なのである。だから変革を求める声は止まないし保守的な声も止まない。

それでも、国民みんなで決めていける自由さが、重要だ。勝手に決まらないよう、なるべく選挙に行くべきなのである。

自由に営業できるから、一所懸命に勉強して、高度な仕事がしたいと思うのも自由なのである。簡単で気楽な仕事をしたいのも自由である。

しかし、長い歴史上、やっと自由で民主的になったぐらいだから、貧富の差というよりは、まさに貧困の程度のほうがあまりに甚だしかったりして、まだ自由の実質が本当には達成されていない。ゆえに、福祉政策が注目されたりしている。

こういう訳なので、学歴が必要かどうかは、それぞれ個々人の自由や状態によると思われる。必要なひとには学校も必要だが、学校など必要ないひとには不要なのである。

わたしが習ったことがある教授は、勉強できるなら学校は来なくても良いんだよと言っていた。資格で言ったらTOEIC900点ぐらい基礎的にとりあえず気軽に取っといたらぐらいの話をしていた。

それを別世界と思うかどうか。TOEICや英検ができたら英語は十分できたことになるのかどうかは、少なくとも受けたことがあるならよく知っているはずだ。

勉強によって何をしたいかもまたひとにより全然異なっている。それゆえ、学歴は不要でも勉強自体はしたいひとが多いだろう。

学歴とはあくまで表示に過ぎない。中身が伴わなければ、これ見よがしで腹が立つというひともいるかもしれない。それもその通りだろう。

たほう、人種や生まれ等でなく学歴ならだいぶ開かれていてそれなりに納得できる基準だと思うひとも多い。だからこどもも勉強するのだと思う。

こうして、『天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず、と言へり。』と福沢諭吉が書いたように 最初ひとは平等かもしれないが、実際いろんなひとがいて、その差は勉強したかしないかも結構ある。

だから、勉強しようじゃないか、歴史的にはいろいろとあったが、これからはだいぶよくなる、そう思って精進していこう、という話にも相当な理由がある。自由に本読みなど、本が叩きつけられるような時代があったからだ。

学歴と学習そして学問、実学……、あれこれと勉強世界には存在していて、これらは全て、ひとにより、その価値も異なっていることだろう。

あるひとにはMBAやコンピュータなどがあり、あるひとには古文や詩があるのである。あるひとにはいろんな人生経験が豊かにある。それらすべてが、勉強という文字で表されている。その履歴が学歴であろう。

学歴の表示が必要かと問われたら、あくまで場合により有益だとわたしは思う。プロフィールに「東大文学部卒」「詩を書いて十年」「カメラ五年」「読書二十年」「パート十年」「企業経営二十年」などと書いてあれば、ああそうなんだと、明確な基準となる。話の取っ掛かりにもなる。

しかし学歴だけをどこまでも金看板にする時代でもない。学歴はあるけれどそれだけ、学歴もないし中身もない、学歴の有無でひとを審判するなど、そうならないようしたいものである。いったい、学びとは何か。

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