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つまりひとは

※全文無料で読めます。

わたしは「吉田君は復興セレブだね」と作家のかたに言われるぐらいすごい数の取材を受けてきた*。しかし震災前にわたしが新聞に載ったのは一度だけ。大学の誌面にもエッセイが一度だけ。いわき市内にてファッション写真が一度だけ。おそらく普通の田舎の若者ぐらいだ。一度だってすごいとどれも褒められた。語学はもともと好んでいたが。
*参照『境界の町で』岡映里(リトルモア)

それがいきなり海外含め数十回ぐらいに増加して、あり得ない経験をした。ライターや記者や映像作家などが途中で被災地の取材をやめたのか何なのか、形にならなかったものも多い。嬉しいこともあったし、失礼なこともあった。英語だけでなく、フランス語で挨拶したり、ドイツ語で挨拶したり。とりあえず、それほど国内外で外界の文化をもった人達と会ってきたと言えるだろう。楽しかった。

あるとき、記者は取材に行った先で、「お土産」というのを貰うことが多いというのを全国的に著名な企業のかたから聞いたことがある。曰く付きお土産。何から何まで幅広く、その地域その地域での下から秘密から陰の部分だ。そういう目的で来てないときに貰うと聞いている。つまり重くなるだけということだろう。もしかしたら私自身が世間話のつもりでそんな話をしたのかもしれない。

わたしなども、記者でもないのに子どもの頃から今の今までそういうのはいろんな人達から聞いて育っている。人間、このクズなるもの。そう思うことはしばしばだった。しかしだからこそ、人間は神話の神々とあまり変わらないのではないかと思う寛容さは身に付いたかもしれない。あのバカこのアホ。となりに蔵が建てば腹が立つとむかし聞いたこともある。

おそらくそれは、かつて人類が狩猟採集や定住開始のころから、少ない集団内部でどんな権力関係や状況に誰が居るかということが、生き残るために決定的に必要な情報だったためであろう。どうやら数万年もそうであった。はるかむかしは、死因の結構な割合が「争い」なのだから。最小単位である自分や家族を防衛しえるインテリジェンスだとして本能化したのだろう。

ひとはいろんなことを経験する。いろんなことを経験して、思ったり考えたり感じたりしたら、それは集団や未来に役立つかもしれないから伝達する。ひとまず何かが発散されたり、面白かったり、という役立ちもある。長い長い年月にわたって繰り返してきた。集団内部でもそうだが、外部からの情報もそうだ。旅人はどこでも重宝される。情報交換。相部屋のユースホステル。伊勢参り等々の道中もそう、日本では古来から旅人を大事にする文化がある。変なやつ。変わったひと。それが面白い。

しかもひとは自分の話をしているとき、たいへんな喜びを覚えているらしい。人間が話す内容のかなりの割合が自分の話なのだそうだ。かくいうわたしも、自分が聞いた話であるお土産のことをいつか誰かに渡したかったから、自分のことと絡めて書いている。ただし公に書き残すということは、良い感じで残し伝え終えられる良さがある。そうこうして、つまりひとは、伝えたい、聞いてもらいたい。

投げ銭サンクス。

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