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過ぎたるは猶及ばざるが如し

ドラマ「セクシー田中さん」の原作者が投稿した「声明」が、波紋を呼んでいる。 漫画原作者である芦原妃名子氏は自身のXを更新し、ドラマについて説明。「セクシー田中さん」は連載中ということもあり、ドラマ化には「必ず漫画に忠実に」、ドラマ終盤は原作者があらすじからセリフまで用意する、などの条件を出し、日本テレビ側もそれを確認していたという。 にもかかわらず、毎回、原作から大きく逸脱した脚本が提出され『枠にハマったキャラクターに変えないでいただきたい。私が描いた「セクシー田中さん」という作品の個性を消されてしまうなら、私はドラマ化を今からでもやめたいぐらいだ』と、何度も訴えたという。

この記事で私が感じたのは、これが放送メディアの「驕り」です。ということなんです。多くの方は「何でそんなことするんだろう?」とか、「時間の関係上かな?」とか、いろんなことを思うのでしょうが、まず第1にテレビ局の人間は「俺(私)がプロデュースやキャスティングした方が絶対に良くなる!」と思い込んでいます。そういう教育を受けて育ってきているからです。前から言っている、無能に育てられても無能にしかならないということはこういうことなのです。そして、この無能連鎖は止まらないのです。

そういう方々とたくさん仕事をしてきた私があえて言いたいのは「今がどういう時代か知っていますか? 100歩譲っても、今、良い作品を作り出しているのはテレビじゃなくてNetflixですよね。まあ、ネットメディアを信用したくない気持ちはわかるんですけど、今さら、90年代のトレンディドラマ手法でヒットが出せるとお思いですか? せめて、ドラマ制作費をネトフリ並に出せてからの話じゃないですかね。出せないなら、原作に忠実にやるか、それでもできない場合は原作者に筋を通すべきでは?」

要するに、業界あるあるなんですけど、契約たって細かい部分にまで詳細に書いてあるわけではありませんし、テレビ局側としては、未だに「こっちがドラマ化してやってる」感覚が抜けていないのです。どれだけ影響力を失っていると思っているのでしょうか。「セクシー田中さん」を好きでドラマ化したいと企画した人が、もしかして局内にいたとしたら、大抵の場合、企画だけ奪われて反故にされるのが業界内の習わしです。半沢直樹じゃないですが、部下の手柄は上司の手柄。上司の失敗は部下の失敗。そういうことが当たり前に行われてきた業界だからこそ、もし、誰か本当に「セクシー田中さん」を好きでいてくれた方がいたとしたら、居た堪れない。私は何度もこういうことがあったので、上に献策することは止めましたが。

日本の場合は映画もテレビ局や広告代理店に毒されている場合が多いので、「のだめカンタービレ」にしても「ちはやふる」にしても、テレビ局主導で制作が行われた作品に関しては、あくまでも企画ありき、事務所の繋がりありき、お金ありきであると考えるのが筋でしょう。キャスティングにしても、多くは放送局と事務所の蜜月関係などに使われるのです。視聴者や作品のファンのことなんて微塵にも思っていません。そういう放送メディアの手法に日本国民は長らく薬漬けにされてきたのです。どうせ視聴者はただの数字にしか見ていません。私もその1人だったのですから。

女性自身の記事「がっかりした」女性向け漫画に実写化作品ランキングで上位にランクインした作品は全てそういった作品の類であり、如何にメディア自体が作品の良さをお金や忖度のために台無しにしてきたかがわかります。

原作者の皆さん。
愛がある作品は、ネトフリでやりませんか?

テレビ局からそんなオファーがあっても、キッパリと断りましょう。

この記事を書いた後に、原作者・芦原妃名子さんの訃報を耳にしました。何か切ないです。とにかく切ないです。テレビ局も代理店も言葉だけなら何とでも言います。代理店や営業だって、「いや~、前からファンだったんですよ。」って、ホントにファンだったりしたのって30回に1回くらいですよね。情けない話です。大抵はそんな話が入ってきてから適当に調べてるでしょ?「いや〜いい作品ですよね〜」って、どこがどのように?答えられるの?

音楽だって漫画だって芸術なんです。作者の心がこもった大事な作品なんです。それを自由に変更しようなんて言うのは放送メディアの驕りですよ。と言いつつ、放送メディアではこれが常識なんですけどね。穿った見方をすれば、現場の人は悪くなくて、局の上の方の人が何か言ったんじゃないのかな。とも思っています。それくらい、放送メディアの上の方の人達は無能です。しかも、何一つ、悪いと思っていない。90年代で止まってますからね。

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