5歳児の時間

最近妙に昔のことを思い出す。
その中のひとつ、私が5歳児だった時のかすかな記憶。

友人の家にお泊まりに行く日だった。
親同士の決めた約束の時間。
5歳児だった私に、時間の概念なんてものはなかった。否、多少はあったけれど、気にすることがなかった。なんせ、自分で自分の時間を管理する機会などなかったのだから。自分自身が親に管理される身だ。
さらに、とかくじっとしていられない子どもだったもので、時計が動いているというのも俄かに信じ難かった。我が家の愛されし時計には秒針がない。

「一番長い針が6に来たら行くよ」

と母は言った。
私は動かない時計を見上げて、今なら言える『ばかばかしい』という当時には形容できなかった気持ちを持て余した。
なぜ動かない時計の前で待たねばならないのか。逸る気持ちはぶすくれるほっぺに詰められた。

結局あの頃の私は時計の針が動くと信じられず、適当に言った。言ってしまった。

「もうはり6にきたよ」

ああ、私には動いて見えなかった針。ぶすくれた時間などたいして長くなかっただろうに、母は「じゃあ行こうか」と言った。

針は5を指していたはずだ。私の目に映った動かない針は。
母は訂正してはくれなかった。
未だにこの記憶が残っているのは、それが印象深かったからに違いない。
母にとって、6は6でも必ずしも6ぴったりである必要はなかった。
5歳児の、6は6ぴったりでなければ許せぬ心など知らないのだ。許せぬのに、その針は動かないと思っていたのだから、憤懣やる方ないのもわかるだろう?

時々思い出す幼児期の記憶は、いつも今より新鮮だ。





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