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旅エッセイ【てんびん】

 白菜と、唐辛子と、エノキ。明日からの食料を買う。調味料は醤油だけ。肉は買わない。私はベジタリアンでは無い。ただ、ナイフもなく皿もない部屋には手に余ってしまう。本当は好きでは無いけれど、健康のためにトマトもふたつカゴに入れる。
 今日から1ヶ月だけの新しい仮住まいに心を踊らす。林の中の小さなコテージ。世界を旅して回っていたという老夫婦が出迎えてくれる。新しげな木の部屋にセミダブルのベッド。ヤモリとの二人暮しが始まる。

 食料を調達した帰り、小道の奥に明るい建物を見つけた。木々に囲まれて静かに広がる西欧風のバーレストラン。
 野菜でパンパンになったリュックを床に置き、瓶ビールをひとつ。氷の入ったグラスにゆっくり注ぐ。
 隣の席から聞こえる楽しげな話し声が、そのままこちらへ向けられる。
「どこから来たの?」
「地元の人かと思った」
「1人で来たの?」
何十回と聞いた質問が繰り広げられる。返答には一切時間がかからない。
「ジャパン」
「ノー。ジャパニーズ」
「イエス」

 問題はここから。必ず続く質問を私は知ってる。
「どうして1人なの?」
「さみしくないの?」

 あなたはどうして人といるの? いつも喉まで込み上げるこの言葉を、今日も薄いビールと一緒に押し戻す。愚問。

 計ってみただけ。アストライアーに聞いてみて。それ、貸してって。使ってみるといいよ。あんなものなんの役にも立たないから。どれだけ目を凝らしても、見えるのは彼女の笑みだけ。
 彼女の手から離れて自由になった道具はそこに貼り付いてずっと動かないまま。だってあれはほら、私のものでは無いから。動いたからって、それがなに?

「日本人はひとりで旅行するのが好きなんだよね? あなたの他にもひとりで旅行する日本人にあったことがあるよ」
奥に座っている女の子が言う。
「日本では長期で仕事を休むのは難しいから。友達と予定を合わせて旅行は出来ないんだ」
定型文を投げ返す。

 街灯のない暗い道を数え切れないほどの犬に追いかけられながら、ストストと家に帰る。ヤモリが見張るキッチンで、白菜と、唐辛子と、エノキをちぎる。両手を使ってブチブチちぎる。トマトは仕方がないからそのまま。水を入れて、スイッチをオンにするだけ。

 新しい住まいの名前を伝えるとみんなが口を揃えて「静かなところだよね」と言う。真っ暗闇の林の向こうから、止むことのない犬の声と、爆音の音楽と下手なカラオケが響き続ける。

また会いましょう。