「カテゴライズする」言葉に「カテゴライズされる」

便利な言葉ってある。

感情を表すのにありがちな表現だとか、定型文だとか。

その中に「カテゴライズする」言葉も含まれるのではないか。

帰属意識はある程度人間がもつもの、というか、もちたいもの、なのだろう。

自己紹介しようとすれば、
・社会のどんな分類の仕事の、
・どんな分類の階層の(お金持ちです、とは言わないだろうけれど、学歴なんかでだいたいわかってしまうのでは)、
・どんな分類の趣味がある人間なのか、云々。
ということを結局は伝えてしまう。

わたしの最も愛していて、最も自己の支えとしている本に、サン・テグジュペリの「星の王子さま」がある。

有名すぎる本なので読んだことがない人でも抜粋された名言(あまり名言という表現でこの本の言葉を紹介しているものを見るのがすきではないが)などを見かけたことがあるひとも多いかもしれない。

その名言とやらの紹介でよくあるのが
「たいせつなことは目に見えない」とかだと思うけど、わたしとしては物語序盤のとある文章が心に残り続けている。

この本を手にしたのは中学2年生だったと思う。
教室に居たくなくて保健室に行ったら、図書室にこっそり行ってきていいよ、と言われたので、授業中で誰も居ない図書室で適当に手に取ったのが出逢いだった。

新しい友だちができたと話しても、大人はいちばん大切なことは聞かない。
「どんな声をしている?」「どんな遊びが好き?」「チョウチョ採集をしている?」なんてぜったいに聞かない。
その代わりに、「年はいくつ?」「兄弟は何人?」「体重は何キロ?」「お父さんの給料はいくら?」などと聞く。
こういった数字からでしか、大人はその子のことがわかったと思えない。
(サン・テグジュペリ「星の王子さま」より)

これを読んですぐに、この本はわたしのために書かれた本なのではないかと思い込んだほどだ。

この文章ですっかりサン・テグジュペリファンになった14歳のわたしは、数字だとかに囚われるのではなくて、相手の本質を見つめられるような人になろう、このことだけは幾つになっても心のなかに留めておこう、と決意したのだった。

「星の王子さま」の文章はあくまで数字が大人の象徴のような形で書かれているのだが、これを
「なんの仕事をしているの?」
「どこの大学出身なの?」
といったセリフに置き換えても同じようなことが言えるのではないだろうか。

仕事や学歴や趣味のジャンルといった「カテゴライズする」言葉というのはとても便利なのだけど、これをひとに当てはめてしまうと当然はみ出ている部分が拾いきれない。
つまり、「カテゴライズする」言葉に「カテゴライズされる」人間になってしまう危険性がそこにはある。

例えば自己紹介なんかでも、星の王子さまの文章にあるように、分類なんてできないような、もっと、そのひと故の表現がいい。
使ってみたその言葉、その単語からすこしはみ出ている自分無視されていくからだ。

かといって自分やなにかを語ろうとすれば永遠に終わらないだろうし「百聞は一見にしかず」状態になるのは目に見えている。

だけど、本質を見つめられるようにしようとか、カテゴライズしてはいないか、カテゴライズされていはないか、はみ出ている自分を無視してはいないか、という思いを心の中に持っておくのはいいことだと思う。

さて、わたしも「星の王子さま」を定期的に再読することで、子どもの頃の気持ちを忘れないようにしよう。

「星の王子さま」はすべての「子どもだった」ひとたちに救いの手を差し伸べてくれるような、サン・テグジュペリよ、書いてくれてありがとう、と思ってしまうような、そんな本なのでどこかで手にされたら読んでみて、理解できそうかどうか立ち止まって考えてみてほしい。

「理解できっこない」と思う場合、子どもすぎるか、大人すぎるかのどちらかだと思う。
ちなみに小学生の頃はちっとも理解できなかったし面白くもなんともなかった。

というのも「星の王子さま」は結局大人向けの本だし、酸いも甘いも知ってしまった大人の視点というのが純粋な子どもには当然、わかるはずがないからだ。

大人になると便利な言葉をたくさん知るし使えるようになる。
でも、たまには少し立ち止まって、自分の言葉や表現を見直し、分類に拘らないような自由な表現ができるように心がけたい。

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