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344. 「多様性」が大切だというなら、LGBTをキモイという意見やLGBTは認めないという意見も多様性の一部でしょう?

このような「論法」がツイッターを始めとするインターネットの大型掲示板などでも見られます。

例えば、「多様性というなら、LGBTを認めない立場も多様性に含まれるはずだ」というような考え方です。

この考え方は正しいのでしょうか?

まず、「多様性」という言葉の意味を確認しておきましょう:

多様性(ダイバーシティ/diversity)とは「ある集団の中に異なる特徴・特性を持つ人がともに存在すること」です。ダイバーシティという言葉は、人種や国籍、性別、年齢、障がいの有無、宗教、性的指向、価値観などの多様性から、キャリアや経験、職歴、働き方といった職業生活における多様性まで幅広いジャンルで用いられています。

ミライイより(太字は金城によるもの)

日本、東京都、●●大学、株式会社■■、▲▲町内会などいろいろな社会集団があります。

その中に異性愛者、同性愛者、両性愛者、無性愛者、トランスジェンダーなどのLGBTに代表される性的マイノリティもいます。

例えば「●●大学が多様性を尊重する」というとき、その構成メンバー(教職員や学生)は「いろんな人がいていい」「性的指向によって差別しない・されない」ということを大事にしているはずです。

しかし、この●●大学に所属するAさんが「LGBTはキモい」と言ったとしましょう。

このAさんの発言は●●大学の中で許されるものでしょうか?

別の言い方をすれば、「LGBTはキモい」という発言はこの大学が重要だと考える多様性の一部となるのでしょうか?

私はそうは思いません。なぜなら、その「LGBTはキモい」という発言自体が多様性の定義を否定することになるからです。

ここで疑問に思った方もいらっしゃるかもしれません。

「キモい」と思うのは自由だし、「多様性」の定義には「多様な人がお互いに仲良くしなさい」とは書いていないと。

確かにそうです。

しかし、これも以前の記事に書きましたが、「心で思うこと」をそのまま言葉にするというのは礼儀に適っていないのです。

多様性を認めるということは、心で「キモい」と思っていてもそれを言葉に出して言わない。なぜなら、その多様な相手を傷つけることになるからです。

多様性を認めることは寛容であることと関係があります。

●●大学が「多様性を尊重する」というのであれば、Aさんの発言は許されないことになります。

「多様性」という言葉は「多様性を認める」「多様性を推進する」「多様性のある社会」というように用いられます。

「キモい」だけでなく、「多様性のある社会」というような文脈で用いられるのであれば、「多様性を認めないのも多様性の一部だ」という考え方も自己矛盾(定義矛盾)になりますね。

ちなみに、「私/僕はそもそも多様性なんて認めない!だからLGBTをキモイと言ってもいいんだ/LGBTなんて認めない」という人がいたらどうでしょう?

おそらくその人はその瞬間、自分以外の人との関係がプツリと切れてしまうかもしれません。

多様性を否定することは自分の周りの人を否定することになるからです。

自分が持っている属性(人種、国籍、性別、嗜好、宗教、価値観、多様性を認めないという信念…)と異なるものはすべて認めない。

だから「多様性を認めない」と言った瞬間から、自分以外の(おそらくすべての)人を否定しなければならなくなります。自分と全く同じ人は世界にはいないのですから。

そして、おそらくその人は逆に世界から否定されることになるかもしれませんね(SF小説の題材としては面白いかもしれませんが)。

そもそもなぜ多様性が必要とされているのかについてはこちらの記事をどうぞ:

私たちは生まれた時からすでに多様性のある社会(世界)にいるのです。それを否定することはできないと思いますが、いかがでしょうか。

参考資料

画像:UnsplashDaria Nepriakhina 🇺🇦が撮影した写真