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剽窃行為をしてしまう学生という観点から、大学教育について考えてみる

久しぶりに仕事のことを切り口に頭の体操をしてみたので書いてみようと思う。

最近取り組んでいる仕事の中のひとつは、「学生の剽窃行為を処分するルール」の改定である。
(剽窃とは簡単に言えばコピペのこと。他人が書いた書籍や記事をそのままコピペして自分のものとしてレポートにしてしまう行為などを指し、学問の世界では当然犯罪である)

私の所属する大学では、こうした剽窃行為を行った場合、ケースによっては停学となるなど、かなり厳しい姿勢で臨んでいる。(学生時代、大して学問に真剣に取り組んだ記憶のない私には耳の痛い話だが)

オンライン授業が増え、定期試験が少なくなった現在では、レポートによる評価が多くなったこともあり、剽窃行為が増えつつある。

そんな中、教育者であり研究者でもある教員からは
「とにかく大小に関わらず、しっかりした処分を!」
「厳罰にすれば、周りの学生も剽窃行為をやめるはずだ」
といった強い意見も散見される。
これももっともの言い分であり、彼らの研究者としてのプライドがそうさせない,というのもうなずける。

一方で私が個人的に思うのは,
罪を犯した者を罰し,それを周知することだけで,学生たちは行動を変える(罪を犯さない)のか?

個人的な見解として,これだけでは不十分だと考えている。
大切なことは、
「なぜ学生達は剽窃行為をしてしまうのか」
「その要因から考えなくては本質的な解決策にはつながらない」
ということである。

突き詰めていくと、剽窃行為の裏側には、学生達が「大学に期待すること」そのものが隠れているのではないだろうか?
という視点に辿り着いた。

ということで、剽窃行為という切り口から、私なりの要因分析を以下の切り口から解説していきたい。

1.日本社会における大学のあり方
2.学生が大学に期待するもの
3.結論、私たち教職員がやるべきこと


1.日本社会における大学のあり方
 ①学歴で決まる就職先
まず、日本社会が圧倒的な学歴社会であるは明白な事実である。
少しずつ変わりつつあるものの、大半の企業は新卒一括採用で、「○○大卒」の肩書を持った人間を毎年4月に迎え入れる。
新卒採用のプロセスでは、残念ながら学歴フィルターが存在し、いかに優秀な人間であっても、大学という肩書ひとつで涙をのむことも少なからずある。
つまり極論を言えば、大学で培った能力以上に、高校を卒業した時の、瞬間最大風速的な学力をもって序列がつけられ、人生における選択肢が狭まってしまっているのが現状である。

②社会で根強く残る肩書主義
こうした状況もあり、企業に入ってからも「○○大卒の〜さん」というイメージが離れない企業文化も多く残っている。
社内では大学名がひとつの肩書きになっているし、社外に出れば「○○社の〜さん」といった形で、企業名が肩書きになっている。
極端な例で言えば、「慶應大学卒の総合商社勤務の鈴木さん」という肩書きだけで、その人物の凄さになってしまう状況である。
一人ひとりの職務遂行能力ではなく、大学名・勤務先が先行する肩書主義がいまだに根強いのが日本社会だと考えられる。

③肩書主義の中での大学
海外を見れば、「将来○○をするため、▲▲を学びたいからこの大学のこの学部にいきたい!」といった「学びたいこと軸」の大学選びが主流である。
ただ、日本の特殊な肩書主義の中では、残念ながら大学の大半は、大卒という学歴を手に入れるための場所となってしまっている。
そのため、少しでもランクが高い大学を目指して高校生は勉強をするし、合格した大学の中から入学先を決める際も、そのランクが大きく影響してしまっていると考える。(本来であれば、その大学で得られるインプットの内容や質をもとに意思決定すべきだが)

2.学生が大学に期待するもの
上述のような日本社会で育った学生達が期待するものは当然、「○○大学卒業という肩書」を得るための場所になってしまう。
そのため、一部の授業を除けば、「何を学ぶか」ということはあまり重要視されず、将来大切になる仲間づくりや学外活動に重きを置いた学生生活になりがちだと考える。(こうした活動も非常に重要なものではあるが)

では、学びへの期待値の低い学生は、学問でどんな行動を取るのか?
単純に、「ラクして卒業したい」という心理のもと、単位取得が簡単な科目を履修したり、レポートでのコピペで乗り切ろうとするのである。
「できる限り省エネで卒業し、大卒という肩書を得られればそれでOK」 これが多くの学生が大学に期待しているものなのではないだろうか。

肩書社会にいる学生達がこうした行動を取ることは、ある意味、自然の摂理的にうなづけるものでもある。個人の能力ではなく、肩書で将来の選択肢がある程度決まる以上、大学教育への期待値は下がってしまうと考えられる。
(大学教育の質そのものも、海外に比べれば褒められたものではないと思うが・・・)

3.結論、私たち教職員がやるべきこと
①方向性
今回、学生の剽窃行為、という小さな切り口から、大学教育の現状というとても大きな課題について考えてみた。
結論、私たちのやるべきこととして、「悪いものは悪い」として毅然とした態度で剽窃行為を取り締まっていくことも必要であろう。
ただ同時に、上述のような学生の置かれた立場や日本の社会環境も意識して取り組んでいかなければならないと考える。
もちろん、都内のたったひとつの大学だけで、日本社会に蔓延る肩書主義を撲滅することなんて不可能である。
ただ、昨今の情勢を見ると、近い将来、その肩書主義は淘汰されていくだろう。
それを見据えた動きをしていかなければならない。

②これからの大学に求められるもの
新型コロナをはじめ、今の社会はVUCAという言葉がぴったり当てはまるように、前例だけで乗り越えることのできない、先読みしにくい世の中になったと考える。
その中で生きる私たちにとって必要な能力の一つは、知識を「つなぐ」能力、つないだ知識をもとに「自ら考える」能力だと思う。(平たく言えば、過去に学んだことや経験それぞれをつなぎ合わせ、その中から新しい自分なりの見解を出す能力)
前例だけでは乗り切れない世の中では、こうした個々の考え、多様性が非常に重要だと考える。
そうした能力を養う場所、というものが大学に求められるものなのではないだろうか。

③剽窃行為に対して
「つなぐ」能力、「自ら考える」能力を養おうと考える際、剽窃行為は「悪いこと」であると同時に教育効果を下げるものでもある。

他人の考えをコピペして答えを出すことは、一種の検索能力があれば誰でも(AIでも)でき、そのアウトプットには、個人の考えは全く含まれていない。
人の考えの受け売りしかできない人間ばかりになっては、VUCAの時代の日本社会はまさに暗黒時代になってしまうのではないだろうか。

そのため、我々教職員も「悪いことは悪い」と断じるだけでなく、「将来を担う能力を養うためにも剽窃行為はやめよう」という前向きなメッセージを学生に伝えていくことも大切なのではないだろうか。
(同時に、社会から期待される教育水準も満たせるよう、全体レベルをアップさせることもしていかなくてはならない、これは絶対に無視してはいけない)

だいぶ長くなってしまったが、あくまでもこれは私個人の見解であり、所属する組織には一切関係ないということをご理解いただきたい。(また、思いつくままに書いたため、乱文ご容赦ください)

以上

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