写真家 ロバート・キャパとユージン・スミス の生き方
あるきっかけから、2人の写真家を比較した文章を書くことになりました。最近よく向き合う「伝える」「編集」について「フォトジャーナリズム」というジャンルなら関係も深いだろうと思い、報道写真家を選びました。とびっきりかっこいい生き方をした2人の写真家「ロバート・キャパ」と「ユージン・スミス」
はじめに
写真には事件や人の姿・行動を記録する機能があることから、社会性、社会へのメッセージという側面を持ちます。その機能は技術的・歴史的変化とともに20世紀に進歩を遂げました。技術的には、文字と写真を同時に印刷する技術のハーフトーン印刷や強力な閃光で夜の郊外を照らすマグネシウムフラッシュなどの発明がありました。また20世紀には2つの大戦とその後続く数々の社会問題というフォトジャーナリズムが照らすべき対象がたくさんありました。ライフという雑誌の誕生と衰退もそれらの過程にあります。
考察対象としたロバート・キャパ、ユージン・スミスはともに1910年代生まれで、第二次世界大戦前後の争乱や社会のうねりを撮影し、社会にインパクトを与えた報道写真家です。ロバート・キャパはハンガリー出身、ユージン・スミスはアメリカ出身と出自の違いはあるにせよ、ともに同時代の報道写真家として活動していたことから共通点は多いです。一方、被写体の選択、色使い、戦争との関わり方などに違いも多い点に興味を持ち、比較対象にしました。
2人の主な作品
作品の共通点・相違点
作品の共通点
①報道写真というジャンル
2人は報道写真家であるため、主たる作品は自ずと報道写真となります。戦争と復興過程に見る傷あと、貧困問題、環境問題などがテーマとなっています。
②近づいて撮影している
キャパが残した「写真が良くないならば、被写体にもっと近づけばいい」( "If your pictures aren’t good enough, you’re not close enough,”)という言葉にも表れるように、2人の写真は被写体の近くで撮られたものが多いです。「近づく」とは物理的な近さと心理的な近さの両方を指すと推測できます。良い写真を撮るためにときにリスクをとりながら物理的に近づく、ゲームをしたりともに生活したりすることで被写体となる人物との心の距離を近づくといったこだわりを2人とも見せています。
③人を撮った作品が多い
テーマは戦争や社会問題でも、それにより困るのも世界に届けるべきなのも人であるというスタンスが伺えます。下からのアングルが多い点、画面は明るく陰鬱になり過ぎていない点に写される者たちへのリスペクトを感じます。
作品の相違点
①対象の変化
キャパの撮影対象は1932年のデビューから1954年インドネシア戦争での事故死まで一貫して戦争でした。スミスも名を挙げたのは太平洋戦争での作品ですが、大戦で負傷して以降は人々の暮らしや工業都市・産業の記録、環境問題へと対象が変遷しています。
②白と白黒
作品を見たときの印象として、キャパの作品は画面に白が多く死や迫害といった深刻なシーンでも一見爽やかな印象を受けます。スミスの作品も暗いテーマでも白い光が差している印象を抱きますが、白の強さより、白と黒のコントラストが印象的です。
③事件と暮らし
キャパは戦争という事件を求めて移動し続けていました。スペイン内戦に始まり、日中戦争・第二次世界大戦ではアジア・ヨーロッパ・アフリカを縦横に戦地を目指しています。大戦後も中東、アジアを訪れています。スミスは、第二次世界大戦中こそ太平洋で戦線を駆け上がりましたが、その後はピッツバーグ、東京、水俣に腰を落ち着かせて人々の暮らしを撮り続けました。
共通点や相違点が生まれた背景
共通点が生まれた背景
キャパ1913年、スミス1918年と生まれた時代が近くともに報道写真家であったという点が理由になります。また2人とも良い写真を撮るためには被写体に近づくことをいとわない目的意識の持ち主でした。人懐っこい様子の写真や記述も多く残っており、関わった人と親交を深めていたことも伺えます。同じ時代を生き報道写真という同じジャンルで良い写真を撮ろうとし続けたことが、被写体の人、距離、構図の共通点に繋がったと考察します。
相違点が生まれた背景
対象の変化、色使い、切り取り方における相違点については、単にスタイルが違うでは説明しきれない様々な条件が重なって生まれた違いだと考えます。作品というのは対象と相対した際にどう向き合うか、どう捉えるかで変わるものです。同じ時代、同じ領域でも、事件や人、自分との向き合い方で変化は大きく生まれると考えます。彼らの「向き合い方」について3つの点で比較します。
①戦争との向き合い方
生まれた年は5年違いと近くても、亡くなった年はキャパ1954年、スミス1978年と24年離れているため生きた時代は違うと言えます。キャパが亡くなったのは第二次世界大戦終戦から10年と経たない時期で、ベトナム戦争真っ只中でもありました。深まる貧富の差、主義の違い、原子爆弾や枯葉剤といった化学兵器の影響などの戦争の負の側面が明るみに出切る前とも言えます。ライフ誌が1960年代後半に最大部数を更新した後翳りを見せ始め1972年に休刊したという時代感から、戦争の報道は感動や問題意識だけでなく嫌悪感や無力感を与え始めていたのではないかと思います。解釈や視点が写真の意味を左右し、編集ありきの撮影方針がスミスを追い込んだという記述もあります。報道写真家としても自信にも疑問符がつき始め、スミスに戦争以外の対象を選ばせたと見ることもできます。また、スミスは沖縄戦で生死をさまようレベルの負傷をしています。戦争の怖さを身体で感じたこと、戦後を生きたことでキャパとは戦争との向き合い方が違い、医療やケアが対象になっていったのではないかと考えます。
②人との向き合い方
「写真が良くないならば、被写体にもっと近づけばいい」良い写真を撮るために被写体に近づくのは2人とも変わりません。近づき方に違いがあります。キャパは戦地から戦地へ移動する戦争写真家であり1地点に滞在する日数は長くないです。よって、被写体に心理的に近づくためにはお酒やカードゲームなども用いて積極的に働きかけます。一方スミスは大戦後ピッツバーグ、東京、水俣といった街に長期滞在していました。音楽や笑顔など心の距離を詰めるコミュニケーション力も持ち合わせているのですが、長く住むことで現地の人と関係を作り、短期とはまた違うレベルで距離を詰めていました。それが「田舎医者」「入浴する智子と母」のような一見その距離で撮ることがためらわれるようなシーンの撮影に繋がっていると言えます。ふるさとの持ち方にもそれは表れます。故郷を懐かしむよりは次々と新たな戦地を求めるキャパに対して、スミスには度々日本、特に水俣をふるさとと感じさせます。世間一般的に報道に求められがちな「客観性」をあえて無視する主観性をスミスは重視していたと自ら語っています。ライフなど雑誌の編集との軋轢が絶えなかったスミスの一つの答えのように思います。また、写真が明るいのはともに撮影対象であった人に、一筋の光に焦点を当てたのではないでしょうか。スミスの場合は現像へのこだわりとトリミングの技術が白黒のコントラストに表れました。
③自分との向き合い方
キャパはあくまでフリーランスで撮りたい写真を撮る、スミスは団体に所属し求められる写真を撮ることが多いという所属の違いに、自分はどうありたいかという考え方が見られます。また彼らが付き合った人々について、キャパがアーネスト・ヘミングウェイ、パブロ・ピカソなど作家・芸術家たちと刺激しあう仲だったのに対し、スミスは日立の人々、水俣の人々という市井の人間や弱き者たちとの関わりが多く、そこから影響が表現の原動力の一つであったという違いもあります。彼らの生き方に職業的な名前をつけるとしたらフォトアーティスト「ロバート・キャパ」と写真活動家「ユージン・スミス」だと言いたいです。
結び
写真には自分の向き合い方が投影されるとまとめました。ぼくにとっての最大の表現対象であるシンシアの事業と組織には、ぼくの人や商品、社会との向き合い方が投影されます。かっこよく生きるために、向き合い方やそれが表れることばや行動を引き締めたくなる想いを、2人の写真家からもらいました。
〈参考文献〉
飯沢耕太郎『写真概論』、京都造形芸術大学、2004年
ICPロバート・キャパ・アーカイブ編『ロバート・キャパ写真集』、岩波文庫、2017年
ロバート・キャパ 川添浩史/井上清一訳『ちょっとピンぼけ』、文春文庫、1979年
土方正志『ユージン・スミス 楽園へのあゆみ』、偕成社、2006年
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