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ROTH BART BARONの「8」を聴きながら、2022年からのこととか

(トップの画像は、ドイツのお土産でもらったお茶のアドベントカレンダーのもの)

今年の後半は、ずっと 'ジュブナイル' という言葉がぐるぐるとしていた。

それはROTH BART BARONの新譜「8」、がリリースされたタイミングで目にしたからなのだけれど。

なんていうか…
今年はずっとというか、いろんなニュースを目の当たりにするたびに、何かが終わっていくような気持ちになることが多くて、昭和というよりも平成が終わっていくんだなと感じている。

令和になってもう5年近く経って、何を今更、と言われるかもしれない。
平成に生まれたコンテンツはまだ多くあるし、平成生まれもまだまだ多くいるし、昭和生まれだっている。もちろん大正もいるけれども。

言いたいのはそういうことではなくて、令和になって過去の時代が過ぎ去っていって、どんどん過去のものになっていく寂しさというか。
新しいものが悪いとか嫌いとかではなくて、そこにはもちろんワクワクの方が勝るけれど、でもどうしても過ぎ去るものが少し寂しく感じてしまう相反するものがせめぎ合っているというか。

それはそれで書き出すと、きっと長くなりそうなので、別枠を設けて書いておくとして。


2022年あたりの記憶

ROTH BART BARONの音楽は、ここ数年の目まぐるしいような世界の動きの中で聴くことが多くて、2022年は結構頻繁に聴いていた。

それは、ふと昔の曲を久しぶりに聴いてみようかなぁと、偶然「ロットバルトバロンの氷河期 (ROTH BART BARON'S “The Ice Age")」を聴いていたときだった。

あの時の感覚は、雷に打たれたような、とても衝撃的なものだった。

ちょうど世界の暗いニュースが毎日のように報じられている中で、ここ何十年かの海外のニュースや情勢を全く意識せず過ごしてきた反省とか、目を向けていなかった後悔とか、いろんな感情が生まれてきた時だった。

そしてAudibleを知ってお試しで使って「同志少女よ、敵を撃て」を聴き終えていた頃で、自分の中でずっと答えが出せずにいた、人と人の争いがなぜいけないのか、という問いへの答えがうっすら見えてきた頃だった。


ロットバルトバロンの氷河期 (ROTH BART BARON'S “The Ice Age")」は、2014年リリースだけれど、2022年の最初の方に悶々とした世界の空気の重さとかで身体が重かった時に聴いて、あまりに自分の感情とか世界情勢とかたくさんのことが絡み合って本当に衝撃的だった、としか言えない。

三船さんが世界の各地を訪れているのは知っていたし、その頃にインスタでありし頃の記憶の写真をたくさん投稿していたこともあって、とても広大な視点と、それでいて感覚や感性を研ぎ澄ませて、そこに暮らす人や街を理解しようとする人なんだなとは思っていたけれど。

きっと、どこか争いの匂いが残る中で、実際に訪れ見てきた中で感じたものが、あの曲たちの中に散らばっていたのだとしたら、なんて多くのものをこの国で過ごしている自分は見失っていたんだろう、とか。
あの曲たちの中には、いろんな世界の景色や想いが見えていた。

そんなこともあって、半年くらいはROTH BART BARONの曲も含めて昔の曲を聞き返しては驚くことが多かった。
日々はいつものように良い時も悪い時もあって、いろんなことを思いながら過ごしていたら、いつの間にか三船さんはドイツと東京の二拠点の生活になっていた。

もちろん驚いたけれど、でもきっとその選択はより良い人生への豊かさに繋がっていくんだろうなと、BEAR NIGHT4を観ながら思っていた。

そして、新譜の「8」がリリースされた。

いつだったか夜のラジオで、ドイツではお墓の周りで家族がご飯を食べたり、遊んでいたりして衝撃的だった。というような話をしていたのが印象的だった。
(うろ覚えなので、多分どこかのリリースの後の記事にちゃんとしたのがあるかも…)

その時に、後ろで子どもの声や街の音が聞こえていて、異国なのだけれどそこには当たり前の日常や風景があるんだなぁと、遠い街に想いを馳せていた。
日本とドイツとか、ドイツの歴史とか、それはそれでたくさんあるけれども。

そんなことを思いながら、、
なにかの小説で日本ではそんな場面って沖縄あたりにあるとか書いていたような…。
でもよくよく思えば、古墳ってお墓だし史跡といえど観光地ぽくなってるし、なんなら花見とかご飯とか、子どもが普通に走り回ってるし、いやこれは人のお墓の上…とか変なことを夜のテンションで考えていた。

楽曲はレコードの発売日が過ぎてから聴いたのだけれど。
ちょっと個人的に反省したいことが。


余談…

滅多に車の運転中は音楽を聴かない。
でも、せっかくだしと思ってスマホに音源をダウンロードして、帰り道に少しルンルンで聴いていた時のこと。

ちょうど「千の春」がかかり出した頃。
どこか遠くで緊急車両の音が聞こえて、ミラーを見たけれどその姿は見当たらないし、いやーきっとこういう音も入ってるのかなーと思っていた。
ちょっと曲の世界に集中していたこともあるし、意識が半分くらい引っ張られていたこともあると思う。

気がついたら、その音は大きなっていて、真後ろに鬼のような形相で運転する人(そう見えた)と、隣で避けてくださいーと伝えている人がいた。

ひょえ…いつの間にどこから来たんや。ずっと直線道だったのに…。
と、心臓バクバクのまま、すみませんすみませんと思いながら路肩に寄せたのですが。
こういうこともあるし、今後音楽聴くとき気をつけねば、と思った出来事がありました。


最初に聴いた時に、音楽を聴いて自然と身体が揺れるような、なにも考えず楽しくなるような、そんな気持ちになった。
エレキギターの音は、初めて聴いた洋楽の心地よいギターの音のようで、国内の人が弾く音とは違うどこか異国情緒漂うような音のような気がして、どこか懐かしい気持ちになった。

個人的な記憶…

まだ小さかった頃にお友だちが通っていたピアノ教室について行って、おっかなびっくりに鍵盤を叩いた時の感動と、なぜかしっくりくる言葉では表せない気持ちを思い出した。
好きとも嫌いとも違う、探していたものを見つけた喜びみたいなもの。
半ば衝動的に、これやりたい、と身体が叫んでいた気がする。

そんな気持ちを、なんで忘れていたんだろう。

でも何にでも好き嫌いはあって、誰かのそれが嫌いという言葉を使いたくはないけれど、身体が感じることはある。
年々それが変化したり、固執したり、変に執着したりしまうこともがあって、純粋に何かを判断することができなくなっているような、そんなことを時々思うことがあるけれど。

このアルバムは、もちろんそういう選択もありかもしれないけれど、でも純粋に音を楽しめば、もっともっと好きが増えて、音楽だって楽しくなるよ、という思いにさせてくれる。

と同時に、わかってはいたけれど、知ってはいたけれど、子どもの頃の記憶とか、蓋をした想いとか、意外と緒を引いているような、どこかで引きずっているような感覚もあるんだなと、思う。
それが、なにかの力になることもあれば、何かをマイナスにさせることもあるかもしれないけれど。

そんなことを考えながら、そういえば、、と思う。
ROTH BART BARONや三船雅也、という人を知るたびに、何かで見かけるたびに、うっすらと考えることがある。

三船さんは音を通して誰かを、化けさせるような、そんな人なのかもしれないと。

それはBEAR NIGHTだったり、ROTH BART BARONというスタイルの中で音を奏でたりする中で、その人が大事にしている何かを見つけて、一緒に奏でて進化させ、そして送り出していくのかもと。
そのためにトップランナーとして走り続けて、いろんなことをやって、そしてそれが周りに伝播しているような、そんな気がしてならない。

創りたいものを妥協しない。
言葉の届け方、音の届け方、場所の作り方だったり。

より良いものを創るために、たくさんの人と混ざり合いながら、たくさんの場所を訪れて人や物を発掘して、一緒にものづくりをしているのかもしれない。

それはもしかしたら、三船さんの子どもの頃の記憶も影響しているのかもしれないと、MIRAIの映像を見ながら思う。

この「8」という作品に出会いながら、混沌とした世界の中で2023年の終わりに多くの音楽やテレビ番組を見ながら、自分の子どもの頃の情景をより深く思い出したりするとは思わなかったけれど。

2020年以降の中で失ってきた何かを、ここ1年くらいで取り戻しつつある中で、大切な何かを探し求めていたらそこには昔の頃の情景があって、そこからまた生まれる何かを、多くの人が求めていたのかもしれない、とかふと思う。

そんなことを考えたり、自分の子どもの頃の情景を思い出したりしたアルバムになって、またROTH BART BARONが好きになったよ、というお話。

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